2005年02月22日
動作テスト
MTの移行作業。
投稿者 kawabata : 23:35
2003年12月16日
グレースケール

Photoshopで作った5パーセント刻みのスケール。モニタ表示が適切かどうかの大ざっぱな目安になる。重要なのは100と95,あるいは0と5の差がモニタ上できちんと判別できるか。出来ない場合はモニタが暗すぎる、あるいは明るすぎるので、公開している画像はワタシの意図と違って表示されていることになる。また色かぶりも確認しておこう。
投稿者 kawabata : 23:25 | コメント (0)
2002年11月30日
ワールドタンクミュージアム
例によって海洋堂のショップで買うよ?と思っていたけど、秋葉原デパートでも売っていたよ。10コ買い。2,500円。タイガーIIが5台だよ…しかも3色迷彩が4台…(´∀`;)、ほしかったヘッツァーの3色迷彩が出なかったけど、これ以上の資本投下はいかがなものか…第3弾にいたってまったく手に入れてないですヨ…
[追記]
現用戦車シリーズとかリモコンとか対決シリーズとか、展開はめまぐるしいが、ワタシが本当に望む車両、たとえばケッテンクラートや4号突撃砲とかは出ていない。そんなにみんなタイガーとかパンサーが好きなのだろうか。
投稿者 kawabata : 21:59 | コメント (0)
2000年05月30日
井上大輔
自宅で首吊り……「ブルーシャトー」が懐メロにすぎないワタシの年齢では、日大同窓のよしみ(笑)で仕事が成立したらしい、劇場版機動戦士ガンダムの主題歌(哀・戦士/めぐりあい宇宙)を歌っていたヒトという認識しかない。が、山村聡翁的往生はしかたがないことだけど、こういうのは勝手にそのヒトの苦痛を想像してしまう分やりきれないですなあ。合掌。劇場版一作目は、やしきたかじん(砂の十字架)でしたな。
[追記]
「ブルーシャトー」ではなく「ブルー・シャトウ」が正しいのかな。それにしても一般向けニュースでは、ガンダム云々といったことは封殺されていますね。網膜剥離を苦にした自殺には不要な情報なんでしょうか。ところで、眼球構成要素の老朽化による障害は老年期には避けられないモノ。特に水晶体が濁ってしまう白内障あたりは老人症といってもよく、ワタシのまわりの高年齢層でもちらほら。眼を酷使する職業の場合はさらに出現確率が高くなります。ご自愛のほどを。
投稿者 kawabata : 08:44 | コメント (0)
2000年05月02日
中古
旧聞になるが、4月21日に東京・九段で開かれた「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」では、新古書店、マンガ喫茶あたりに圧力をかけていく方策が練られたそうだ。
昨今の「中古」業者の跋扈によって新刊販売が阻害されていることに異議申し立てをといういう、いささか脊髄反射的な立ち居振る舞いとも思えるが、以前書いたように、再販価格維持精度によって存命している出版界あるいは作家が、例えばゲーム業界と同様の理屈を持ち出すことは少し無理がある。
もちろん寡作ながら優れた作品を生み出している作家の保護といったことも考えられるが、もとよりこうした小品は最初から新刊の現場では冷遇されている、さらには作品が陳列されているマンガ喫茶を探すのは難しい限りだ。
極端に言えば、マンガ喫茶に集うのは、初めからマンガなんてものは読み捨てと考えているヒトか、自分の気に入った作品にはいかなる状況にあっても私財をなげうつような豪毅あふれるヒトであろうし、であるなら中古がなくなれば、読み捨て派はマンガから遠ざかるだろうし、一家に3冊派は高岡書店に出向くだけだ。
読み捨てで充分な作品と見なされているからこそ喫茶店レベルで機能するのだろうし、図書館でファミ通を読むようなものでしかない。
ビニールがけのごとき新刊本のプロテクトを施して、購買者を遠ざけてきた結果にすぎないといっては言いすぎだろうか。中古がなくなれば確実に買う層は減少するだろうし、試用もできないようなソフトウェアの未来が明るいとは思えない。
何度も読み返すような、手元に置いておきたくなるような、いてもたってもいられなくなるような、素晴らしい作品があれば、誰だって買いたくなるだろう。逆に言えば、マンガはそういう役目をとっくに終えているのだ。そこのところをはき違えてしまっては困る。
もちろんだからこそ既得権益を死守しようとするんだろうが。
投稿者 kawabata : 09:04 | コメント (0)
2000年03月30日
古本
千代田区神田神保町が古書街として成立した背景には言うまでもなく、そこが学生のたまり場(初めに学校があったのだ。出版社は後から)であったからで、学生が書を捨てて街に出た結果、スキー、あるいは類型の何らかのアウトドア商品を選択したことをもって、「もう神保町もなぁ」と詠嘆するのは実は順序が逆で、揮毫(きごう)本を愛でるような向きを別にすれば、やはり古本は貧乏人でありながら本の好きな人のために機能する。
いや本当の貧乏人は図書館で借りる、とも言えるが、これはどちらかといえば「流派」の問題で、同じ本を繰り返し何度も読む、すなわち、一度では頭に入らないような読書方法を選択している(あるいはせざるをえない)ワタシのような者には、本を所有する行為を断つことは難しい。頭が良くないか、なんらかの執着心がそうさせるのだが、これはどうでもよろしい。
新刊を扱う書店で古本を扱うということが、過去にあったとすれば、それは古本屋さんが何らかの新刊本を扱っていたにすぎず、出版社および取次会社の隷属的な扱いを受けている、そこいらにある「本屋」さんで古本を同時に販売することはなかった。もちろんそれは出版社および取次会社になんら利益をもたらすものではないからだ。
ところが昨今では、この「タブー」が解禁になったかのごとく、書店が独自の判断で古書を販売しているというハナシがある。出版界に従事していた「感覚」でいうと、「ああ、出版もなぁ」と詠じたくもなるが、一消費者として考えれば、最上級でも最下級でもない中途半端な出版物にいつまでも私費を投じていては、物理的にも精神的にも破綻するというものだ。「この内容でこの値段?」。
本は確かに、文化的な、保護されるべき、人類の所産かもしれないが、やはり価格がある以上、商品としての側面は無視できないし、商品である以上、購入者にとって少なからずの「価値」をできるだけ高密度で封入することがなにより賢明で、その努力を怠った結果、今の出版界の現状がある。と、少なくとも送り出す側は考えなければならない。その上での「どうするか」なのだ。人が本を読まなくなったから売れないと言うのは門外漢のみに許される言い訳にすぎない。
書店だって好きで返品しているわけはないし、やはり売れる商品をできるだけたくさん仕入れ、販売したいと考えるのが正常で、それが古本であろうが書店にとっては本来関係のないことだ。
コンピュータゲームのように再販を規制するなどという暴挙(再販価格維持制度を撤廃するのであれば暴挙ではない)を、よもや出版社が考えているとは思わないが、苦々しき思いがどういったカタチで噴出するか興味深いところだ。
間違いなく言えることは、経済的な事情はさておき、本が好きな人ほど古本への執着があり、といって新刊本を購入することも懐具合によっては厭わない。購入に値することが何よりであり、新しいか古いかは問題ではない。「古本」を圧迫することはユーザーを減少させることにはつながるが、「古本がないから新刊を買おう」という意識にはかならずしも結びつかないということだ(このハナシ、趣味的な愛好者を持つ各分野の商品ことごとくに当てはまる)。むろん初めから古本である「本」はないのだが。
新刊が売れないのは、購入者が想定する内容に準じた「適正」な価格というものが、新刊書店のどこにも見あたらないからであって、古本があるからではない。古本が出回るのを待ちきれないほどのスバラシキ新刊本を出せばいいじゃん。ワタシはそんな風に考えています。
といいながら、ワタシが生息する千葉県松戸市常磐平から半径5km以内に点在する古本屋では、ハードカバーはもとより文庫本ですらほとんど商売になっていない様子で、この地域は貧乏な小、中、高校生が多数存在するにもかかわらず、マンガしか売れていない。ワタシ自身は1冊50円で文庫本が買えるこの状況がいつまでも続いてくれることを切に願っている。
投稿者 kawabata : 13:11 | コメント (0)
2000年03月24日
イギリス
嫌いなヒコーキに乗って寒い国に好きこのんでブラックバードやヒツジを撮影しに行きます。現時点では何とも言えないのですが、最長で2週間ほど更新は滞るかもしれません。少なくとも18日までは更新はありません。彼の地からのアクセスの可能性も検討しましたが、撮影機材だけでも10kg超となっているのでやめときます(これでも相当軽いけど)。フィルムはベルビア+プロビア+リアラ。
[追記]
ずいぶんと前に帰還していたのですが、疲れのせいかワイヤードにアクセスするがしんどかったです。撮影目的で行った割には成果は乏しく、その点では反省至極という状況ですが、国勢が右下がりにならざるをえない「日本」の今後のありよう、そして、その局面での「日本人」のありようを考える上での相応の成果はあったようです。封建制今なお色濃い彼の国に滞在して、いろいろと見聞したその詳細をここで紹介することはないでしょうが、Webで開陳するワタシの文章のはしばしにいくばくかのニュアンスは感じ取れるかもしれません。
投稿者 kawabata : 13:24 | コメント (0)
2000年02月29日
ブラインドタッチ
... が死語になって久しいが、「タッチタイプ」そのものは依然として大いなるロマンの対象だ。
キーボードを叩くようになって15年ほどはたつだろうか。いまだに少したどたどしい入力を旨とするワタシの周囲には鬼神のごとくキーを連打するタイピストが数多い。
高速な入力はある種の経済性をともなうわけだが、やっかみ混じりに「いやなに文章の内容とは無関係です」とうそぶいていられたのも過去のことになりそうだ。
現在ゲームセンターで稼働中の「ザ タイピング オブ ザ デッド」は、ガンシューティングゲーム「ザ ハウス オブ ザ デッド2」をキーボード対応にアレンジした、アーケード初のタイピングゲーム。
敵に攻撃される前に表示される文字を入力するという、よくある「タイピング修練ゲームソフト」をゲームセンターに持ち込んだわけだが、すでに「学習」の範疇から逸脱したこうした流れが、もはや「目的と手段の転倒」などと言っていられない状況に突入したことを強く感じたりもする。
どんなに早くコマンドを入力しても、アナログの対戦ではなんの役にも立たない。でも役に立たないからいいのだ。とすれば、タイピングで敵を倒すのは2重に意味がなく、それゆえに惹きつけるモノがある。
アウトドア(サッカー部所属クラスの人気者)とインドア(ラムちゃん命のマニア・オタク者)の対峙のみならず、「博士くん」あるいは「○○くん、掃除当番さぼっちゃだめじゃない」とたしなめる学級委員のあのコをも同次元に引き込む、ゲームシミュレーション(そう、すでにゲーム自体をも模倣し始めたのだ)は、巻き込まれたくはないが目をそらすことができない。もはやデジタルとアナログなんて単純な2項対立はどこにも存在しないのだ。