1999年 3月 の記事

セールスポイント

次世代プロセッサG4を搭載するPowerMacintosh(コードネームは「Sawtooh」)ではマルチプロセッサが効果的とのこと。確実に倍数以上のスピード(CPU2つなら二倍以上)が約束されるそうな。
このことによって、Intel(あるいはその互換市場)に実質的なアドバンテージを稼げるかどうかはわからないが、ひとつの好材料ではあるやもしれん。
もちろん、ほとんどのヒトには関係のないハナシ。問題はそうしたごく限られた条件下での「パフォーマンス」が、何かフツーの人びとにまでそれとない影響を与えてしまうこと。「プロフェッショナルユースで鍛えられた云々」とか類する売り文句は色々開発されてきた。
もちろんそれは、コンピュータ自体が軍事技術のデチューン(またはスピンオフ)であることを考えてみても、当然の成り行きではあるなあ。しかし過剰なまでのスペック重視傾向には、いずれ破綻が訪れる。ターボカー全盛が産み出したのは、最高峰のドライビングテクニックを誇るウィザードですらもコントロール不能に陥るモンスターだったことをフォーミュラ関係者はいまだ忘れていないってことだ。
目の覚めるような処理速度とか、使いきれないほどの多機能、新機能といった、一直線のセールスポイントを押し進めている昨今(この場合デザインやら価格で購入を決定する向きはとりあえず除外)、例えば「使いやすさ」なんてのは、やっぱり抽象的なレベルに棚上げされてる。「使いやすい」と感じるポイントは使うヒトによってずれているだろう式の論述がまかりとおっているのが常だ。
Windows95の普及は「使いやすさ」の定義を、より曖昧に広範囲に適用することを許してしまった。Windows95(以降)は、Windows3.1、またはもっと昔のCUIベースのOSよりも使いやすい(そしてやさしい)ことは間違いないが、かといって絶対的にMacintoshよりも使いやすいという言い方は少し誤っている。
しかしながら、Windowsはその多機能さゆえ「便利」だとはいえる。したがって「便利」を中心に「使いやすさ」をとらえるなら、Windowsは使いやすいOSだということになる(ほんとか?)。ほんとか?
また、古来より得意だった分野(テキスト処理、CAD/3D、その他)では、むしろMacintoshは使いにくいともいえる。特にパラメータ入力を頻繁に行なうアプリケーション操作での使いにくさはいかんともしがたい。
それはマウス中心のオペレーションを基準に設計されたOSが「万能」などいうものではなく、単にキーボードと同等の単なる入力装置にすぎないことを証明してしまった。GUIを否定するわけではないが、実際キーボードのショートカットなくしては効率云々を語ることが出来ない以上、やはりMacOSの不備は否めない。
ただしWindowsでの執拗なまでのショートカット(ファイルダイアログでの過剰さを考えてみよう)が最良とは思えない。そこには不足はないが、不要はある。
GUIを導入することによってハードルを低く見せかけたWindowsの功績は認めたいところだが、それはGUIの勝利ではなく、Microsoftの勝利以外の何者でもない。
さて、注意すべきは部分をもって全体を認識してしまうその態度にあり、これが前述の「使いやすさ」の定義を難しいものにしている。プロが使いやすいと感じるポイントが、ことさら過大に評価される傾向は、フォーミュラの技術が一般乗用車にフィードバックされるという神話がいまだコンピュータ世界に根強いせいだろうが、実際はそう一方通行ではなく、ときには逆の現象もありうるということだ(ターボなどは正にそのもの)。
逆に考えれば、グラフィックの分野でのMacintoshの重用(業界標準)に関しても文字通り受け取る必要もない。少なくともアプリケーションの品揃えに関しては両者の間に差はなく、むろん処理速度においては逐一の状況変化(新プロセッサ登場のような)、あるいは個々の購入予算からくるマシンパワーの違いによって明確な差は生まれににくい。より新しいマシンが「絶対的な価値」を持っているだけの話だ。
以前より普及していたゆえのユーザーの絶対数から、たとえば、出力が安定している、あるいは、周囲が同じユーザーであることからの「トラブルシューティングの容易さ」などがアドバンテージとして存在するにすぎない。それは98帝国が築かれた要因でもある。
両者が機能的に似かよっている今、機能的な違いをあげて優位を示すのはあまりに陳腐だ。多機能なMacintoshなどというものはパロディにすら思えてくる。シンプルで使いやすいWindowsとか。
キーボード操作を嫌い、コマンド入力を避けてきた「初心者」が、高度な処理能力を求めるあまり、多機能さや複雑さをいとわないなんてのはまるで滑稽至極。
フォーミュラはヒトが思っている以上に扱いやすいという。炎天下で2時間を超えるスピードレースをこなすには、センシティヴな操安性が好まれるはずもない。しかし、だからといって誰でもが乗りこなせるわけではないのだ。やはり相応のスキル(いやな言葉だ)が必要とされることは言うまでもない。
(自らにとって)必然性のないパフォーマンスを追い求める、あるいは尊重するのは意味がないことに気づいた(またはそんなことはどうでもよい)新規ユーザーの多くが、デザインやコストを重視しているのは必然なのだろう。
そして、真に大事なのは頼れる隣人であり、愛すべき参考書の数。行き先のわからない宇宙船に乗りたくないヒトが増えていることを、送り手はより重要視すべきだ。Jobs氏が強調する「Simple」というフレーズは多くの示唆を含んでいる。

転がる石には苔はつかない

聴き手の反応を「瞬間」に、そしてその瞬間に内包された自分自身に「集中」させることが主たる目的とする、そんな「ロック」的なるものは、現在いかなるモノによって実現しているのだろうか。
スピリチュアル(この場合黒人霊歌)や原始的な労働歌(この場合ブルーズとして結実)以降、黒人音楽に顕著なこの「自分へのまなざし」、杓子定規に言えば実存主義的姿勢を極限まで高めたロックミュージックは、その画期的な柔軟性ゆえの延命効果により、永遠の調べを奏で続けるはずだった。少なくとも70年代の終わりまでそういうことになっていたはずだ。
しかしながら、カウンターカルチャーとしてロックが事実上死滅した今、その機能は明らかに別の何かに委譲されている。ロックはもはやサブカルチャーですらなく、卑近にはジャズミュージックが辿ってきた道を歩みつつあるように思える。
ではやはりラップミュージックなのだろうか? 実のところその答えはまだ出ていない。また、ハウスミュージックは確かに「音楽」の枠組みを徹底的に破壊した功績は認められるものの、ミュージックというより文字どおりサウンドであり、理性と感覚の融合は見てとれるものの、何かくいたりない印象を残す。
さて、問題は日本における誤読の物語だ。
先日新宿LOFTでの最後のサバトがしめやかに(またははでやかに)とりおこなわれ、祈祷者であるシーナ&ロケッツが、より具体的には鮎川誠氏が、いみじくも「ロックン&ロールは……」とTV画面の誰かにことさら強調していることからも伺えるように、日本におけるロックとは、「ロック」以前であり、新宿LOFT文化(嗚呼、東京ロッカーズ……)に代表されるような、もっと言えばボウイ(英字綴りは失念)以降に敷衍した日本的解釈による「ロック」であり、きわめて模倣が容易な、ある種の型にはまった状態をさすもので、決して柔軟性のある「ポップ・ミュージック」として結実したところの「ロック」ではない。
もしそれが現状に則さないのであれば、いさぎよく形態を変更する、そうした自明がまったくありえない、ステレオタイプとしてのロック、それは「ロックン&ロール」であるかもしれないが、ロック足りうる何かが決定的に欠けている。スタイルに固執することがすでにロックであることを放棄している。
したがって、サウンドだけをとってみれば、むしろハウスミュージックのほうが「ロック」的であることは疑いようがない。少なくともカウンターカルチャーではある。いやサブかもしれないが。
問題はそれでいて、ジャパニーズロック(ン&ロール)は頑ななまでに「ロック」を標榜するあたりにある。ルーズでラウドな音色は確かに無垢な魂に訴えかける力が失われていないように思えることもある。しかしそれは音量に起因したまやかしであり、やはり現状にそくしているとは思えない。もはや「ヒップ」ではないのが誰の目にも明らかなのに。
ワタシが関心があるのは「対抗」あるいは「反」と称される何かであって、郷愁としてのロック&ロールは評価するものの、形骸化した「ロック」なるものに時間を割く余裕はない。
確かに宇多田ヒカルは絶妙なところをついてはいるが、それは工芸品としての輝きであり、若い世代にとってはある種の聖歌と成りうるだろうが、「良く出来ている商品」という評価以上の意味を持ちえない。
一言で言えば、良く教育された従順な観客が多く、ビジネスとしてはやりやすい時代、となるか。もちろん「ロック」的な何かにとってはひどく窮屈であることは違いない。
AppleやMicrosoftがコマーシャルソングにストーンズを援用するのも、かなり周到な大衆心理操作の賜物(たまもの)で、すでにコンピュータテクノロジーにおける「ロック」の終焉を象徴していると思える。Apple(的なるもの)は、数だけ考えれば確かにWindowsに反してるが、内実は同じだということの証左とも。
もちろん普段話題にしているゲームであるとか、あるいはマンガやアニメーションに関しても同じことが言える。そう、ますます大変な時代に突入している。
素直にストーンズを愛好するほうがよほど気が効いているのかもしれない。

アナログ賛歌

いつだか、例の安原一式がいくつかのイベントで公開されるといったことを書いたと思うけど、量産型が展示されるイベントとして、今月20日から22日にかけて東京ビッグサイトで開催される「ノスタルジック モノワールド」と併設開催される「東京ノスタルジックカーショウ」も要注目かな。痛いのは入場券が前売りで1,800円(小学生以下は無料)ってことぐらいか。両者の共通前売り入場券は2,800円ってことだけど、う?んどうしよう。
ノスタルジックとはいえ、アナログを貫徹するほどのイベントではなく、ちょっと前の製品群(せいぜい今世紀)を並べ立てたともいえなくないけど、いやだからこそ「アナログ」感はひとしおだ。あまりに古いものはもはやアナログではなくアナクロなわけだし(笑う)。っていうか記憶にないものはノスタルジーにひたることはできないわけだから、このイベント名はあながち遠くはない。
個人的な見解では、「古いからいい」のではなく、現在では製造コストの面から排除された、ありし日の「高性能」にこそ価値を見いだせると考えている。だから今日流通している、あるいはこれから生み出されるものであってもすばらしいモノはあるだろう。
価値の定まったモノにのみ関心を寄せるのは簡単快適だけど、それは「モノ」を見抜く眼とは何の関連もない。審美眼を鍛えるのは並み大抵ではないということだね。
注意すべきは、万人にとって古き懐かしいからといって、それが必ずしも性能・機能に基づいた評価とは限らないということ。どういうカタチで流布・流行が発生したかが問題だ。これは音楽なんかにも言えるなあ。

国産レンジファインダー

数度の販売延期でいったいどうなることやらと感じていた例の安原一式だが、日本カメラショー(池袋のどこだかで3月5日より)で試作機(リコーブースにてGRのレンズを装着)が、そして、ノスタルジックモノワールド(東京ビッグサイトで3月20?22日)では量産機が展示されるようだ。
ちょっと想起したのは、このLレンズ装着可能な新式が、好事家ではなく、フツウの愛好家に普及したとして、ただでさえ少ないLレンズの高騰を招くことになるのでは、という勝手な理屈だ。
現代のレンズしか知らないほとんどのヒトには、カラーバランスが悪く、コントラストの低い、昔のレンズが必要だとも思えない。写してみてがっかりということも少なくないようだ。現代のレンズで用いて飽きるほど写真をとった上でないと、コンピュータ設計以前のレンズ群を必要とすることもないはずなのだが。比較のしようもない。
なお、Lレンズ(スクリューマウント)とはバルナックライカで採用されたレンズマウントのこと。現在はライカ自体にこのマウントが存在しない。現行はMタイプ(レンジファインダー)およびRタイプ(一眼レフ)となっている(アダプタを介してMマウントに装着できる)。バルナックライカという名は、ライカを考案したオスカー・バルナックにその由来がある。一言で言えばとても古いライカのこと。ワタシが所有しているのもこのバルナックライカ(IIICおよびIIC)。仕事ではほとんど使うことがないが、取材先で興味をもたれることは多い。それなりに役立っているようだ。

リアル

ファイナル・ファンタジー8。とりあえずエンディングまで「観た」。随所に挿入されるCGムービーがCMでは効果的に喧伝されていたと思うが、「ビーストウォーズ」の延長戦上にあるためかいささか食傷してくる。そう、一度でたくさんだ。
「ジャンクション」はともかく「ドロー」がひたすら消化しなければならないドリルのように退屈だという声は実は確実にあるが、それは方向性ということで収めたい。愚直なまでに「苦労」を重ねることが「幸せ」を最大に感じるという作りをどこまでも堅持していくというコンセプトはいまだに根強い。それはGF召還時のムービーが常識的な線よりも若干長めでありながら、キャンセルはいっさいできない。しかもラストを除いてはGF召還の必要性は非常に高い設定にあるにも関わらず……あたりに顕著ではある。
「映画」を射程に入れたその方向性の是非は個人的に関心の及ぶところではないのだが、実はエンディングに開陳されたひとつの「ムービー」に瞠目した。かなりの収穫だ。
それは、ハンディビデオ(?)のような機器を用いて撮られたキャラクターたちの「風景」なのだが、うすぐらい画面の中に見え隠れするその臨場感たるや「なるほど、こういうことか」と得心。そう、ビーストウォーズがいくら密度を増してもそれは「映画」とは「また別の」映像でしかない。
ひとつは「バグズ・ライフ」に代表されるような、テレビカメラ映像的な光の演出を施し、鈴木その子的空間を表出させる白い世界(コントラストの低減)があるのだが、完全に拒絶するようなモノでもないが驚くにはあたらない。ましてや好きな感触ではない。
エンディングのそれは、絶妙なノイズの融合によるアナログ「感」にほかならず、ある種極めてテクニカルなリアルだが、それはワタシの心を揺さぶったのだ。
リアルなキャラクターの動きなどというものは、キャプチャーの出来不出来というある種金額に換算できるファクターでしかないという暴論も可能だが、「奥行き」というのは文字どおり奥の深いもので技術選択を失敗すると無惨な結果に終わるのは、自明。
もちろん、あれが「初」だということではない。ただ、スクウェアの考えているコンピュータグラフィックスに少し安心しただけだ。膨大な演算の結果を単に誇れる時代はもうすでに終わりをつげている。
エンディングだけを観ることができないのが本当に残念だ。
[追記]
エアブラシ界におけるスーパーリアル、昨今のコンピュータ利用による「リアル」なグラフィックス、いずれの場合も「精密度」を極限まで指向するというわかりやすい努力が実れば実るほど「写真化」し、その「手技」の結果としての存在意義を失っていった。
写実主義(そもそも写実とはなんぞや)に関して言えば(正確にはいくつかの領域での存在を認められているものの)「手でこんなに描けるなんてすごい」という素朴な驚きは、友だちの友だちに伝わるころには輝きを失っていく。
作品にこめられた「曖昧な雑情報」をくみ取ることにかけては世界一熱心な日本人の鑑賞眼に、徹底的な「高精度」は果たしていかほどの効力を持ちえるのか。印象派のスピンオフが支配的なこの国において(それもまた愚鈍だが)。
工業製品における精度の確保にことさらやっきになる国民性が、裏返しに求めるアナログ感をここでは「モノのあわれ」とでも称することにしよう。花鳥風月でもいい(笑う)。
当の写真はどうか。
ともあれカメラあるいはフィルムという画材は、日本的勤勉さによってこれ以上ないほど高精細な情報を生み出すこととなった。その延長線上に昨今の「デジタル写真」が存在するのはいうまでもない。
細かく見れば、レンズの高性能さがもたらす「リアル」がやはり作品強度を失うファクターとして機能し、逆に訴求力が低下していることが目にとまる。
ここでも問題は「空気感」の表現を度外視してきた技術の方向性にある。そしてそれは解像度をあげることや高コントラストやカラーバランスの改善では到底なしえない、パラドキシカルな法則にほかならない。そう、レンズ性能が向上すればするほど空気感は失われていくことになる。別には「精密」であるほど「アウラ」が消失していくとも。
別に「人間の目に近づいた」からアウラが増加するわけではないのだ。結局、自ら考える余地を与えない「情報」は、それは単なる「情報」に成り下がる。むろん見えすぎる映像にノイズを混入するというのが、旧時代から要請だったとしても、いくぶんか考える(感じる)余地はあろうというものだ。だからいかに泥縄的な配慮であるとされたとしても、ワタシはスクウェアの深謀を今のところ支持する。
デジタルが持つ「1回性の消失」とともに、この精密主義がもたらす表現はどこまで進化するのだろう。デジタルでない何か新しい指標が生み出されるまで、それは回転しつづけるのだろうか。いずれにしても表現を希求しないのであれば関係のないハナシではある。

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