セールスポイント
- 1999年 3月 30日
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次世代プロセッサG4を搭載するPowerMacintosh(コードネームは「Sawtooh」)ではマルチプロセッサが効果的とのこと。確実に倍数以上のスピード(CPU2つなら二倍以上)が約束されるそうな。
このことによって、Intel(あるいはその互換市場)に実質的なアドバンテージを稼げるかどうかはわからないが、ひとつの好材料ではあるやもしれん。
もちろん、ほとんどのヒトには関係のないハナシ。問題はそうしたごく限られた条件下での「パフォーマンス」が、何かフツーの人びとにまでそれとない影響を与えてしまうこと。「プロフェッショナルユースで鍛えられた云々」とか類する売り文句は色々開発されてきた。
もちろんそれは、コンピュータ自体が軍事技術のデチューン(またはスピンオフ)であることを考えてみても、当然の成り行きではあるなあ。しかし過剰なまでのスペック重視傾向には、いずれ破綻が訪れる。ターボカー全盛が産み出したのは、最高峰のドライビングテクニックを誇るウィザードですらもコントロール不能に陥るモンスターだったことをフォーミュラ関係者はいまだ忘れていないってことだ。
目の覚めるような処理速度とか、使いきれないほどの多機能、新機能といった、一直線のセールスポイントを押し進めている昨今(この場合デザインやら価格で購入を決定する向きはとりあえず除外)、例えば「使いやすさ」なんてのは、やっぱり抽象的なレベルに棚上げされてる。「使いやすい」と感じるポイントは使うヒトによってずれているだろう式の論述がまかりとおっているのが常だ。
Windows95の普及は「使いやすさ」の定義を、より曖昧に広範囲に適用することを許してしまった。Windows95(以降)は、Windows3.1、またはもっと昔のCUIベースのOSよりも使いやすい(そしてやさしい)ことは間違いないが、かといって絶対的にMacintoshよりも使いやすいという言い方は少し誤っている。
しかしながら、Windowsはその多機能さゆえ「便利」だとはいえる。したがって「便利」を中心に「使いやすさ」をとらえるなら、Windowsは使いやすいOSだということになる(ほんとか?)。ほんとか?
また、古来より得意だった分野(テキスト処理、CAD/3D、その他)では、むしろMacintoshは使いにくいともいえる。特にパラメータ入力を頻繁に行なうアプリケーション操作での使いにくさはいかんともしがたい。
それはマウス中心のオペレーションを基準に設計されたOSが「万能」などいうものではなく、単にキーボードと同等の単なる入力装置にすぎないことを証明してしまった。GUIを否定するわけではないが、実際キーボードのショートカットなくしては効率云々を語ることが出来ない以上、やはりMacOSの不備は否めない。
ただしWindowsでの執拗なまでのショートカット(ファイルダイアログでの過剰さを考えてみよう)が最良とは思えない。そこには不足はないが、不要はある。
GUIを導入することによってハードルを低く見せかけたWindowsの功績は認めたいところだが、それはGUIの勝利ではなく、Microsoftの勝利以外の何者でもない。
さて、注意すべきは部分をもって全体を認識してしまうその態度にあり、これが前述の「使いやすさ」の定義を難しいものにしている。プロが使いやすいと感じるポイントが、ことさら過大に評価される傾向は、フォーミュラの技術が一般乗用車にフィードバックされるという神話がいまだコンピュータ世界に根強いせいだろうが、実際はそう一方通行ではなく、ときには逆の現象もありうるということだ(ターボなどは正にそのもの)。
逆に考えれば、グラフィックの分野でのMacintoshの重用(業界標準)に関しても文字通り受け取る必要もない。少なくともアプリケーションの品揃えに関しては両者の間に差はなく、むろん処理速度においては逐一の状況変化(新プロセッサ登場のような)、あるいは個々の購入予算からくるマシンパワーの違いによって明確な差は生まれににくい。より新しいマシンが「絶対的な価値」を持っているだけの話だ。
以前より普及していたゆえのユーザーの絶対数から、たとえば、出力が安定している、あるいは、周囲が同じユーザーであることからの「トラブルシューティングの容易さ」などがアドバンテージとして存在するにすぎない。それは98帝国が築かれた要因でもある。
両者が機能的に似かよっている今、機能的な違いをあげて優位を示すのはあまりに陳腐だ。多機能なMacintoshなどというものはパロディにすら思えてくる。シンプルで使いやすいWindowsとか。
キーボード操作を嫌い、コマンド入力を避けてきた「初心者」が、高度な処理能力を求めるあまり、多機能さや複雑さをいとわないなんてのはまるで滑稽至極。
フォーミュラはヒトが思っている以上に扱いやすいという。炎天下で2時間を超えるスピードレースをこなすには、センシティヴな操安性が好まれるはずもない。しかし、だからといって誰でもが乗りこなせるわけではないのだ。やはり相応のスキル(いやな言葉だ)が必要とされることは言うまでもない。
(自らにとって)必然性のないパフォーマンスを追い求める、あるいは尊重するのは意味がないことに気づいた(またはそんなことはどうでもよい)新規ユーザーの多くが、デザインやコストを重視しているのは必然なのだろう。
そして、真に大事なのは頼れる隣人であり、愛すべき参考書の数。行き先のわからない宇宙船に乗りたくないヒトが増えていることを、送り手はより重要視すべきだ。Jobs氏が強調する「Simple」というフレーズは多くの示唆を含んでいる。