聴き手の反応を「瞬間」に、そしてその瞬間に内包された自分自身に「集中」させることが主たる目的とする、そんな「ロック」的なるものは、現在いかなるモノによって実現しているのだろうか。
スピリチュアル(この場合黒人霊歌)や原始的な労働歌(この場合ブルーズとして結実)以降、黒人音楽に顕著なこの「自分へのまなざし」、杓子定規に言えば実存主義的姿勢を極限まで高めたロックミュージックは、その画期的な柔軟性ゆえの延命効果により、永遠の調べを奏で続けるはずだった。少なくとも70年代の終わりまでそういうことになっていたはずだ。
しかしながら、カウンターカルチャーとしてロックが事実上死滅した今、その機能は明らかに別の何かに委譲されている。ロックはもはやサブカルチャーですらなく、卑近にはジャズミュージックが辿ってきた道を歩みつつあるように思える。
ではやはりラップミュージックなのだろうか? 実のところその答えはまだ出ていない。また、ハウスミュージックは確かに「音楽」の枠組みを徹底的に破壊した功績は認められるものの、ミュージックというより文字どおりサウンドであり、理性と感覚の融合は見てとれるものの、何かくいたりない印象を残す。
さて、問題は日本における誤読の物語だ。
先日新宿LOFTでの最後のサバトがしめやかに(またははでやかに)とりおこなわれ、祈祷者であるシーナ&ロケッツが、より具体的には鮎川誠氏が、いみじくも「ロックン&ロールは……」とTV画面の誰かにことさら強調していることからも伺えるように、日本におけるロックとは、「ロック」以前であり、新宿LOFT文化(嗚呼、東京ロッカーズ……)に代表されるような、もっと言えばボウイ(英字綴りは失念)以降に敷衍した日本的解釈による「ロック」であり、きわめて模倣が容易な、ある種の型にはまった状態をさすもので、決して柔軟性のある「ポップ・ミュージック」として結実したところの「ロック」ではない。
もしそれが現状に則さないのであれば、いさぎよく形態を変更する、そうした自明がまったくありえない、ステレオタイプとしてのロック、それは「ロックン&ロール」であるかもしれないが、ロック足りうる何かが決定的に欠けている。スタイルに固執することがすでにロックであることを放棄している。
したがって、サウンドだけをとってみれば、むしろハウスミュージックのほうが「ロック」的であることは疑いようがない。少なくともカウンターカルチャーではある。いやサブかもしれないが。
問題はそれでいて、ジャパニーズロック(ン&ロール)は頑ななまでに「ロック」を標榜するあたりにある。ルーズでラウドな音色は確かに無垢な魂に訴えかける力が失われていないように思えることもある。しかしそれは音量に起因したまやかしであり、やはり現状にそくしているとは思えない。もはや「ヒップ」ではないのが誰の目にも明らかなのに。
ワタシが関心があるのは「対抗」あるいは「反」と称される何かであって、郷愁としてのロック&ロールは評価するものの、形骸化した「ロック」なるものに時間を割く余裕はない。
確かに宇多田ヒカルは絶妙なところをついてはいるが、それは工芸品としての輝きであり、若い世代にとってはある種の聖歌と成りうるだろうが、「良く出来ている商品」という評価以上の意味を持ちえない。
一言で言えば、良く教育された従順な観客が多く、ビジネスとしてはやりやすい時代、となるか。もちろん「ロック」的な何かにとってはひどく窮屈であることは違いない。
AppleやMicrosoftがコマーシャルソングにストーンズを援用するのも、かなり周到な大衆心理操作の賜物(たまもの)で、すでにコンピュータテクノロジーにおける「ロック」の終焉を象徴していると思える。Apple(的なるもの)は、数だけ考えれば確かにWindowsに反してるが、内実は同じだということの証左とも。
もちろん普段話題にしているゲームであるとか、あるいはマンガやアニメーションに関しても同じことが言える。そう、ますます大変な時代に突入している。
素直にストーンズを愛好するほうがよほど気が効いているのかもしれない。