本物って?
- 1999年 4月 17日
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今に始まったことじゃあないけど、過去への回帰は強まっている。
単刀直入に言うと、「郷愁」と「古典回帰」は一応別に考えたほうがいいかもってことだ。自分に直接関係のある時代を顧みることはやはりノスタルジー要素が強く、いかに60年代あるいは70年代という時代が特別なものであったという「事実」があったにせよ、やはり「今」は強く認識するほうが賢明。つまるところ「保守」と「反動」には明らかな差異があるわけで、かつて小津を酷評した新進気鋭が、小津に近き妙齢になるや、小津も苦笑いするような「反動」をこさえてしまうというような事例は、できれば控えめにしたいものであはあるなあ。
永遠性を約束されたモノに触れることはなかなかどうして甘美なものだが、ややもするとその重厚な事実にとらわれすぎ、何よりも「経緯」というものを忘却してしまう。ライカというのは大した発明ではあるが、それが今日の写真世界すべてに対応するわけもなく、やはり一方でレンズ付きフィルムの「すごさ」を認めておきたいものだ。ライカが何より最上だ、なんて物言いは避けたいもの。現代においてもライカしかなかったらこんなに手軽に写真を楽しめる時代はあり得ないんだしね。
そして、ただ「古い」だけでは、決して本当の「永遠性」を獲得することはできないということも、同時に強く思う。技術としての芸術が機能した時代においてもやっぱりダメなものはダメなわけで、西洋美術館で開催されているベタな展覧会でほとんどがしょうもない(本当に価値のある作品は日本にはなかなかこない)作品を目にしてその意を強くした。過去が常に正しいというのは楽な結論だが、それではその「過去」自体も存在しえないということだ。常に進取の精神で開拓されてきた「テクノロジー」をも全否定しかねない。
ある時期の「テクノロジー」もそれ以前、そして未来があるからこそ生まれてきたということを覚えておこう。愚かな振る舞いをするマジョリティが覆されることはない(ネズミ講を支持するヒトは減ることはない)ようなので、今否定されていることもいつの日か賞賛の対象になりうるだろうけど。すべての進化がある時点でいっせいに止めることができるなら苦労はないんだけどね。
時代と関係なく価値を持ちえるモノはえてして膨大な「コスト」がかかっている。これが本物と遭遇するカギだ。安普請にはそれなりの必然性や価値があるが、やはり「安くてよい」シロモノはそれほどないぞ。であるからしてたとえば、コンピュータ時代以前の工学レンズの計算みたいな、途方もない時間を費やした「手作業」であるとか、おそろしく贅沢な人材(智)を投入した何らかの「作品」みたいなモノは現代においてはなかなか実現しない。この伝で確かに「失われた技術」にほかならず、それは評価の対象だ。そういったモノと単にムカシであることは区別してみよう。問題はコストがかかっているから本物とは限らないということだが、その辺は審美眼を個人的に鍛えるしかない。
印刷を「版画」と称するのは間違いではないが、やっぱりずるいぞ。そういうまやかしに足下をすくわれないためにも鑑賞者(利用者)側でもコストをあまりけちらないことだ。タダより高いものはないのだから。
あんまりまとまりがないけどこの辺で。
[追記]
よく掛け軸なんかが「なんとか鑑定団」で登場して「これは印刷ですねえ」てな具合になるその未来形がそこここにある。ありていに言えば、イルカの絵とかも扱っている某団体が、目玉マークのテレビ局の掩護射撃で勢力を拡大していることに対する懸念を表明したい。そこで扱われている作家の印刷が版画と称されているんで、それはあまり明るいトコロで大きな声(しかも高価格)ではいえないはずでは? 素材明記に「ミクストメディア」とあるのもお約束(このこと自体は「ウソ」ではない。印刷だってハンコで刷っているのだから)とはいえね。「だまされるのが悪い」という言い方はやっぱり程度問題だ。文脈の借用はある程度許されることではあっても、やっぱり自前で批評を形作る必要があるんじゃないのかってことです。