2000年 2月 の記事

ブラインドタッチ

… が死語になって久しいが、「タッチタイプ」そのものは依然として大いなるロマンの対象だ。
キーボードを叩くようになって15年ほどはたつだろうか。いまだに少したどたどしい入力を旨とするワタシの周囲には鬼神のごとくキーを連打するタイピストが数多い。
高速な入力はある種の経済性をともなうわけだが、やっかみ混じりに「いやなに文章の内容とは無関係です」とうそぶいていられたのも過去のことになりそうだ。
現在ゲームセンターで稼働中の「ザ タイピング オブ ザ デッド」は、ガンシューティングゲーム「ザ ハウス オブ ザ デッド2」をキーボード対応にアレンジした、アーケード初のタイピングゲーム。
敵に攻撃される前に表示される文字を入力するという、よくある「タイピング修練ゲームソフト」をゲームセンターに持ち込んだわけだが、すでに「学習」の範疇から逸脱したこうした流れが、もはや「目的と手段の転倒」などと言っていられない状況に突入したことを強く感じたりもする。
どんなに早くコマンドを入力しても、アナログの対戦ではなんの役にも立たない。でも役に立たないからいいのだ。とすれば、タイピングで敵を倒すのは2重に意味がなく、それゆえに惹きつけるモノがある。
アウトドア(サッカー部所属クラスの人気者)とインドア(ラムちゃん命のマニア・オタク者)の対峙のみならず、「博士くん」あるいは「○○くん、掃除当番さぼっちゃだめじゃない」とたしなめる学級委員のあのコをも同次元に引き込む、ゲームシミュレーション(そう、すでにゲーム自体をも模倣し始めたのだ)は、巻き込まれたくはないが目をそらすことができない。もはやデジタルとアナログなんて単純な2項対立はどこにも存在しないのだ。

宇宙戦艦ヤマト

このところ個人的にもセンチメンタルに暴走しているが、それはさておき、「松本零士」に対する世間の期待も「ロマンチシズム」を飛び越えて相当に「センチメンタリズム」めいたモノに傾斜している。「新・宇宙戦艦ヤマト(正式タイトルは失念)」を望む向きが実際どの程度なのかはわからないが、松本氏が敷衍した「スターシステム」がこれだけ「伝承」された昨今、「インチキなモノ」よりも「まし」かもしれないが、もはや「本家」は必要はないのではないか。

ただし、松本作品に通底する「いかほどにテクノロジーが進化し、人々をとりまく環境が変化したとしても、日常生活におけるアナログ性は普遍」という骨子は、まだ充分に光を放ち得る。「SF四畳半主義」とでもいうべきか。経済性と言い換えてもいいが、デジタルのオブセッションが強くなれば、それだけ復古(この場合アナログへの傾斜)への憧憬があからさまになる。もっといえば、ことさら声高に叫ばなくとも、勝手にそうなっていく。「本当」に必要なモノは残っていく。継続していく。あるいは復活する。

問題なのは、同時に、本当に必要のないモノも「復古」してしまう、または、重要なオブジェクトが内包されているのにも関わらず、現状に則した「改良」が施されていない「単なる再生産」が横行することで、これを享受する側が個々に判断しなければならない。

仮に「新・宇宙海賊キャプテンハーロック」が再生されたとして、大事なのは、戦闘中ですらプラモデルを作っている<ヤッタラン>の振る舞いであって、もはやセンチメンタリズムに他ならない<ハーロック>というブランドそのものではない。

五島プラネタリウム

誇れるほど何度も出向いたわけではないけれど、「ここだけは変わらない」と池波正太郎ばりにうそぶきながら、小学生のころ初めて体験した「星空」の甘美な思い出にひたること数回。残念ながら来年閉館となるようだ。邪(よこしま)な目的を内包した「公共事業関連施設」などより、よほど「公共性」を発揮していたことを考えると、惜しい。惜しいが、渋谷はもう「そういう」街ではない。ホントに残したければ、そういうものを自分で作ればいいだけのことだ。

Nikon S3

Nikonが出そうとしているのは、SP(Nikonレンジファインダーの最高峰)でもなく、S2(SP登場以前のNikonレンジファインダー普及機)でもなく、SPの廉価版といえるS3の復刻限定モデル(復刻というよりは2000年春夏技術による再生産とするべきか)。巷間では50万とも60万とも言われている販売価格。当然、当方には関係のないハナシになっちゃいますが、きっと予約完売のパターンだろうなあ。この販売が機となっているかは知りませんが、Sシリーズの修理がNikonで再開ってハナシ(未確認)に関しては、ちょっとだけS2がほしい心に響いてきます。

Macintoshの行く末

総じて言えば、iMac、iBookという製品戦略は、発表当時のAppleの状況を考えると妥当な政策だったと思えるが、その分「コンピュータ応用機器」としての名声をより高めてしまった。インターネット利用を主たる目的にするようなもっともシンプルな消費者が、デフォルト以上の環境を求めて、(市場を活性させるという大事な役目を持つサードパーティの)ハードウェア、ソフトウェアの投資にやっきになるだろうか? もちろんそんなことはしない。新しいMacが出れば気にはするだろうが。あるいはワープロもできるゲーム機に傾斜していくにしても。

今後も一部の例外を除いて、サードパーティの縮小細分化は進むことになる。

ではWindows市場はどうだろう? 競争相手が多いことがすなわちその激烈さを想像させる。しかしながらそのシェアはいくぶんかAppleが奪回したとしても、あまりに広大なのだ。サードパーティが成立する余地は存分にある(もちろん力なき者は去ることになるのだが)。

Macintoshプラットホームに対して、Windows市場と同様の形態を期待すること、ありていにいえばそれは経済性にほかならないが、それをすべての分野、レベルに踏襲することは不可能だ。互換機禁止条約が締結されている現状ではなおさら。

いくばくか改善の余地があるとすれば、「プロ向け」と称している(最高)機種だけでも「最高速」勝負の戦列にすみやかに復帰させる。これしかないだろう。もちろん「一般消費者」にとっても「速度感」は大事だが、「最高」である必然性はない。そんなことをしたら「高価」になってしまう。今どき。

中級機を消滅させた戦略はわかりやすかったが、実際には中途半端になっている。(いずれもWindowsより)<遅い高級機>、<高い普及機>しかないと判断されてもいたしかたない。それでもみんな「Macだから」しぶしぶ使っているのだ。そんなユーザーの温情にすがっているにすぎない。残念ながらその傾向はますます強くなってきた。

拡張性の高さだけで「業務」が滞りなく行なえると考えるのは、やはり難しい。さらにいえばパッケージングだけではなおさら「持たない」のだ。かつての「Quadra」のごときフラッグシップが登場したとき少しは安心できるのだが……そして何もかも鮮烈な、素晴らしい機能を秘めたオペレーションシステムともに。

安心

みんなが賛成しているからダメとかってことはなく、多数決が誤りであるからといって、少数が正しいわけではありません。たとえそれが邪(よこしま)な欲望によって成立しているとしても、プレッシャーが「最大限に発揮」されている限りにおいては、ワタシにとってすべて等価に関心の対象となります。「チャレンジャー」の爆発のように。したがって、各種世界を「牽引」している「力」には瞠目こそすれ、無関心でなどいられません。

ありていに言えば「現代」を冠につけているいくつかの創作活動は、その役目を確実に終えています。テクノロジーに先鞭をつけられている何かしらを踏襲することに腐心しているようでは心許ない。また、「骨董」を愛でるがごとく振る舞いは容認するとしても、矮小化された「創作」なるものが至上のごとく取り扱う不思議少年少女の選民願望には辟易するほかありません。

簡単に言いましょう。「おたく」がそれほど素晴らしいのであれば「おたく」のふりしていばるのではなく「おたく」になればよい。

「才能」なるモノが仮にあるとすれば、現代においてその行く先が「現代」なにがしでないことは自明。イメージングを例にとれば、それはデザイン→イラストレーション→コミック→ゲーム→???のように流動しているはずです。

もちろん、コミック、ゲーム表現が「現代」なにがしにとってかわるものではありません。商業主義ならば商業主義らしく、その旨を正確に伝えていればよろしい。時間がたてばそれも「芸術」です。無理に現時点でしゃちほこばる必要はないでしょう。卑下する必要はまったくない。全力で取り組んだモノだけが生き残ることだけは間違いがないのですから。

ちなみにワタシは芸術「骨董」が大好きです。でもそれは「骨董」以外の何物でもありません。「骨董」は役目を終えているからこそ抗いがたい訴求力を持ち得るのでした。

暗喩

「色彩の王国」とか「色彩王国別冊のコミッカーズ」みたいなあいまいな認識がいまだに散見されますねえ。自分が思っているほどヒトはそれを必要としていないでしょう。ともあれ「需要」は掘り起こすモノ……これは供給する側が常に意識しておきたいことです。みんな食傷気味だって。ホントに「必要」なものなんてそうはないよね。

それから、真似するのは別にいいけど、単なる模倣をいくら繰り返しても「掘り起こす」能力が育つことはないし、たいした需要にはなりえない。「オリジナル」がいいに決まってるもの。デッサンは必要かもしれないが、デッサンがうまいだけでも困っちゃうよね。目から血が出るくらい知恵(労力)を絞って、なんらかの新機軸を付加しなお、売れる(通用する)かどうかは五分五分、という賢明さがほしい。

やっぱり常人には計り知れない膨大な「尽力」には素直にひれ伏すものです。思いつきの延長線上にしかないって判断を下されたらおしまい。「こんなのオレだって描ける(あるいは知っている)」ってね。簡単に作ったものは簡単に消費されるだけ。いずれにせよ自分の判断には常に疑問をもってあたるように心がけたいものです。

突然ですが、リブロポート、トレヴィル、シナジー幾何学、光琳社、京都書院、教育書籍、ロード出版、新声社、柳原書店、ほるぷ、駸々堂……次はどこか? とっても関心あります。すべてとは言わないけど、再販価格維持制度にぶら下がって生きながらえている出版界にもそろそろ……。

[追記]
需要は「掘り起こす」モノですが、さらに言えば潜在的に「ある」モノを発見するという次元ではなく、存在しないところに無理くり生成するという荒技もあり得ます。「必要」かどうかがより疑わしいモノほどその傾向が強いようです。

模倣から派生した仕業の延長線上では「掘り起こす」のが精一杯とも言えます。『色彩王国』はその類になろうかと思います。アレを見て「初見」と感じるのは単に「知らない」だけということでしょう。

ところで、『色彩王国』において最も重点的に取り扱われているのは、『色彩王国3』での序文「この本をとってくれたあなたに」で明確に示されているように、ホスピタリティの「バランス」に他なりません。

すべての攻略を開陳してしまったら、そのゲームの「ゲーム」性は消失し、回答をなぞらえるだけになってします。能動性を無視した「攻略本」全盛を深く危惧する姫川ふるるサンの立脚点は常にそのあたりにありました。

『MT/マンガテクニック』『Comikers』『快描教室』『本気のマンガ術』『色彩王国』で展開された「姫川流」は、それでもワタシから見ると相当に「ホスピタリティ」を注入したシロモノで、ある種「回答」まるわかりじゃんと思われるものでしたが、読者の反応は「もっと具体的に詳しく」といった「要求」も少なくありませんでした。

森羅万象の何もかもが明解になろうはずもありません。どれほど社会が経済性を追求しようとも。アナログ感はデジタルが突き進んだ先にこそ最大に強化されるのです。宇宙船は年追うごとにますます汚くなっているじゃないですか(笑)。いずれにしても非合理というのは放っておいてもなくなることはなく、「辛抱強さ」といったアナログな耐性はやはり強いにこしたことはない。

構図を自動化してくれるカメラなんて「必要」ありますか? いや「創造」性も「必要」がないならばそれもまた便利でしょうけどね。本質から言えば銀塩がデジタルに置き換わるのはそれほど大したことではないはずです。

あんまり補足になってないや。

400万画素

3月に向けて各社300万画素を超えるデジタルカメラを投入することはすでに伝えた通りだけど、富士写真フイルムは一気に400万画素オーバーのスペックで勝負するようだね。しかも3月1日発売ときたもんだ。

一般消費者向けの「FinePix4700Z」(432万画素)では、そのややオーバースペックな画素以上に、CCD配列が「ハニカム」(蜂の巣)形状になっている(そしてその形状は8角形だ)ことを強調したいようなんだけど、そもそも150万画素時代から、普及機用のCCD自体の性能を完全に引き出しているとは思えないので、実際のクオリティはどうだろうなあ。

最大2400×1800ピクセル(重そう)ですからね。ちょっとぐらい画質がアレでもいいのかな。ていうか以前の弱点が克服されていたらまたもや一人勝ちだよ。128,000円て値段も画素割合で言うとすごいぞ。

同時発表で600万画素のプロ向け商品「FinePix S1 Pro」(613万画素・6月発売予定)もあるんだけど、こっちはNikonF-60Dあたりをベースにしているので安っぽさはぬぐえない。しかしながら、ニッコールマウント採用(当たり前)てのは少しだけ面白い。価格が40万円台を目標にしているようなので、かなりイイ感じ。ただし、Dタイプのニッコールを使用しなければ何かと不便だろうから、ワタシが手を出せるようなモノではないかな。

とはいえ確実にダウンサイジングは進んでいる。したがって利便性を追求する分野でのデジタル普及は思いのほか早いかもしれないね。

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