みんなが賛成しているからダメとかってことはなく、多数決が誤りであるからといって、少数が正しいわけではありません。たとえそれが邪(よこしま)な欲望によって成立しているとしても、プレッシャーが「最大限に発揮」されている限りにおいては、ワタシにとってすべて等価に関心の対象となります。「チャレンジャー」の爆発のように。したがって、各種世界を「牽引」している「力」には瞠目こそすれ、無関心でなどいられません。

ありていに言えば「現代」を冠につけているいくつかの創作活動は、その役目を確実に終えています。テクノロジーに先鞭をつけられている何かしらを踏襲することに腐心しているようでは心許ない。また、「骨董」を愛でるがごとく振る舞いは容認するとしても、矮小化された「創作」なるものが至上のごとく取り扱う不思議少年少女の選民願望には辟易するほかありません。

簡単に言いましょう。「おたく」がそれほど素晴らしいのであれば「おたく」のふりしていばるのではなく「おたく」になればよい。

「才能」なるモノが仮にあるとすれば、現代においてその行く先が「現代」なにがしでないことは自明。イメージングを例にとれば、それはデザイン→イラストレーション→コミック→ゲーム→???のように流動しているはずです。

もちろん、コミック、ゲーム表現が「現代」なにがしにとってかわるものではありません。商業主義ならば商業主義らしく、その旨を正確に伝えていればよろしい。時間がたてばそれも「芸術」です。無理に現時点でしゃちほこばる必要はないでしょう。卑下する必要はまったくない。全力で取り組んだモノだけが生き残ることだけは間違いがないのですから。

ちなみにワタシは芸術「骨董」が大好きです。でもそれは「骨董」以外の何物でもありません。「骨董」は役目を終えているからこそ抗いがたい訴求力を持ち得るのでした。