このところ個人的にもセンチメンタルに暴走しているが、それはさておき、「松本零士」に対する世間の期待も「ロマンチシズム」を飛び越えて相当に「センチメンタリズム」めいたモノに傾斜している。「新・宇宙戦艦ヤマト(正式タイトルは失念)」を望む向きが実際どの程度なのかはわからないが、松本氏が敷衍した「スターシステム」がこれだけ「伝承」された昨今、「インチキなモノ」よりも「まし」かもしれないが、もはや「本家」は必要はないのではないか。

ただし、松本作品に通底する「いかほどにテクノロジーが進化し、人々をとりまく環境が変化したとしても、日常生活におけるアナログ性は普遍」という骨子は、まだ充分に光を放ち得る。「SF四畳半主義」とでもいうべきか。経済性と言い換えてもいいが、デジタルのオブセッションが強くなれば、それだけ復古(この場合アナログへの傾斜)への憧憬があからさまになる。もっといえば、ことさら声高に叫ばなくとも、勝手にそうなっていく。「本当」に必要なモノは残っていく。継続していく。あるいは復活する。

問題なのは、同時に、本当に必要のないモノも「復古」してしまう、または、重要なオブジェクトが内包されているのにも関わらず、現状に則した「改良」が施されていない「単なる再生産」が横行することで、これを享受する側が個々に判断しなければならない。

仮に「新・宇宙海賊キャプテンハーロック」が再生されたとして、大事なのは、戦闘中ですらプラモデルを作っている<ヤッタラン>の振る舞いであって、もはやセンチメンタリズムに他ならない<ハーロック>というブランドそのものではない。