2000年 3月 の記事

古本

千代田区神田神保町が古書街として成立した背景には言うまでもなく、そこが学生のたまり場(初めに学校があったのだ。出版社は後から)であったからで、学生が書を捨てて街に出た結果、スキー、あるいは類型の何らかのアウトドア商品を選択したことをもって、「もう神保町もなぁ」と詠嘆するのは実は順序が逆で、揮毫(きごう)本を愛でるような向きを別にすれば、やはり古本は貧乏人でありながら本の好きな人のために機能する。
いや本当の貧乏人は図書館で借りる、とも言えるが、これはどちらかといえば「流派」の問題で、同じ本を繰り返し何度も読む、すなわち、一度では頭に入らないような読書方法を選択している(あるいはせざるをえない)ワタシのような者には、本を所有する行為を断つことは難しい。頭が良くないか、なんらかの執着心がそうさせるのだが、これはどうでもよろしい。
新刊を扱う書店で古本を扱うということが、過去にあったとすれば、それは古本屋さんが何らかの新刊本を扱っていたにすぎず、出版社および取次会社の隷属的な扱いを受けている、そこいらにある「本屋」さんで古本を同時に販売することはなかった。もちろんそれは出版社および取次会社になんら利益をもたらすものではないからだ。
ところが昨今では、この「タブー」が解禁になったかのごとく、書店が独自の判断で古書を販売しているというハナシがある。出版界に従事していた「感覚」でいうと、「ああ、出版もなぁ」と詠じたくもなるが、一消費者として考えれば、最上級でも最下級でもない中途半端な出版物にいつまでも私費を投じていては、物理的にも精神的にも破綻するというものだ。「この内容でこの値段?」。
本は確かに、文化的な、保護されるべき、人類の所産かもしれないが、やはり価格がある以上、商品としての側面は無視できないし、商品である以上、購入者にとって少なからずの「価値」をできるだけ高密度で封入することがなにより賢明で、その努力を怠った結果、今の出版界の現状がある。と、少なくとも送り出す側は考えなければならない。その上での「どうするか」なのだ。人が本を読まなくなったから売れないと言うのは門外漢のみに許される言い訳にすぎない。
書店だって好きで返品しているわけはないし、やはり売れる商品をできるだけたくさん仕入れ、販売したいと考えるのが正常で、それが古本であろうが書店にとっては本来関係のないことだ。
コンピュータゲームのように再販を規制するなどという暴挙(再販価格維持制度を撤廃するのであれば暴挙ではない)を、よもや出版社が考えているとは思わないが、苦々しき思いがどういったカタチで噴出するか興味深いところだ。
間違いなく言えることは、経済的な事情はさておき、本が好きな人ほど古本への執着があり、といって新刊本を購入することも懐具合によっては厭わない。購入に値することが何よりであり、新しいか古いかは問題ではない。「古本」を圧迫することはユーザーを減少させることにはつながるが、「古本がないから新刊を買おう」という意識にはかならずしも結びつかないということだ(このハナシ、趣味的な愛好者を持つ各分野の商品ことごとくに当てはまる)。むろん初めから古本である「本」はないのだが。
新刊が売れないのは、購入者が想定する内容に準じた「適正」な価格というものが、新刊書店のどこにも見あたらないからであって、古本があるからではない。古本が出回るのを待ちきれないほどのスバラシキ新刊本を出せばいいじゃん。ワタシはそんな風に考えています。
といいながら、ワタシが生息する千葉県松戸市常磐平から半径5km以内に点在する古本屋では、ハードカバーはもとより文庫本ですらほとんど商売になっていない様子で、この地域は貧乏な小、中、高校生が多数存在するにもかかわらず、マンガしか売れていない。ワタシ自身は1冊50円で文庫本が買えるこの状況がいつまでも続いてくれることを切に願っている。

イギリス

嫌いなヒコーキに乗って寒い国に好きこのんでブラックバードやヒツジを撮影しに行きます。現時点では何とも言えないのですが、最長で2週間ほど更新は滞るかもしれません。少なくとも18日までは更新はありません。彼の地からのアクセスの可能性も検討しましたが、撮影機材だけでも10kg超となっているのでやめときます(これでも相当軽いけど)。フィルムはベルビア+プロビア+リアラ。
[追記]
ずいぶんと前に帰還していたのですが、疲れのせいかワイヤードにアクセスするがしんどかったです。撮影目的で行った割には成果は乏しく、その点では反省至極という状況ですが、国勢が右下がりにならざるをえない「日本」の今後のありよう、そして、その局面での「日本人」のありようを考える上での相応の成果はあったようです。封建制今なお色濃い彼の国に滞在して、いろいろと見聞したその詳細をここで紹介することはないでしょうが、Webで開陳するワタシの文章のはしばしにいくばくかのニュアンスは感じ取れるかもしれません。

映画「コンタクト」

ロバート・ゼメキス監督作品。原作・原案カール・セーガン。主演ジョディ・フォスター。未知なる「宇宙」との「遭遇」を描いたSF大作……なんとまあストレートなアオリ!
ワタシがゼメキス好きとはいえ、やはり上記のような条件を提示されると躊躇してしまう。実際尻込みして、うかうかしているうちに780円で販売される始末だ。が、しかし、うっかりと観てしまった。
ところが、これはなかなか「魅せる」作品だったりした。ゼメキス作品としては悪くない。
筋を説明するとなぜか平凡でとてもつまらなくなってしまうので、興味が沸いたヒトは各自ご購入ください。ビデオの安売り店でまだ売っていると思います。ワゴン陳列も見かけました。
ただしこの作品を楽しむには、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を端緒にゼメキス作品を何本か観ておく必要があります。ある種の「楽屋落ち」的カタルシスも混入されていますので(もちろんそれだけではありませんが)。ご注意のほど。

同人

コンピュータソフトウェアの<フリーウェア>とか<シェアウェア>がいわゆる「同人」めいたものであるかどうかはともかく、少なくとも「商用ソフトウェア」に対して今でも有効な力を持っていることは、Windowsプラットホームを散見すればあきらかだよなあ。
かゆいところに手が届いているというか、届きすぎな、MP3あるいはCD-Rのエンコーダとか、ある種のダウンロードをとても快適に実行しちゃうステキなプログラムのリリースが頻繁に行なわれている様、または不謹慎このうえないある種のゲームプログラムを見ると、Windowsであるがゆえのデメリットを想起するよりも、なによりうらやましさが先に立つなあ。
やはりこれが「健全」な状態であって、数種の商用ソフトウェアのみで成立せざるをえないプラットホームはワタシにとって「使えない」ものでしかなく、かつてのMacintoshプラットホームにあったPDS全盛期を懐かしく、そしてかなうことがないことは知りつつも今切実に求めてしまう。で、HyperCard云々ってハナシになるのですなあ。
「インディーズ(苦手な表記)」あるいは「サブカル(嫌いな表記)」なんでもいいが、そういう「マイノリティ」が「カウンター」としてではなく文字通り「マイナー」としてのみ存在しているのであれば、それは恐ろしく退屈なモノだ。余計なことを言えば現代美術を見るたび思うことでもあったりするなあ。
「フリー」よりは「シェア」が幅を利かせているWindows世界への非難もあるだろうし、Macにだってイイ感じのプログラムはまだまだ多いという声を言下に否定するつもりはないんだけど、しかし、やっぱりダメだろうなあ。「格好」ばっかりだもの。Macって。誤解を恐れず言うなら単なる「実用」だもの。怪しいとかインチキ臭いとか「暗部」が極端に少なすぎるんですなあ。
互換機否定が前提では「自作」という発想もなく、「利用」する、あるいは「所有」にとどまるのは当然なのだ。それはMacintoshが「コンピュータ応用機器」としての運命を邁進していることを意味する。仕事に使えるという次元での何か「ステキなモノ」はこれからも出るでしょうけどね。それじゃなあ。
結局「リソース」が圧倒的に不足してますね。売るヒトがいくら熱心になっても売るモノがなければどうしようもないなあ。やっぱり厳しい。Jobsだけじゃなあ。

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