古本
- 2000年 3月 30日
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千代田区神田神保町が古書街として成立した背景には言うまでもなく、そこが学生のたまり場(初めに学校があったのだ。出版社は後から)であったからで、学生が書を捨てて街に出た結果、スキー、あるいは類型の何らかのアウトドア商品を選択したことをもって、「もう神保町もなぁ」と詠嘆するのは実は順序が逆で、揮毫(きごう)本を愛でるような向きを別にすれば、やはり古本は貧乏人でありながら本の好きな人のために機能する。
いや本当の貧乏人は図書館で借りる、とも言えるが、これはどちらかといえば「流派」の問題で、同じ本を繰り返し何度も読む、すなわち、一度では頭に入らないような読書方法を選択している(あるいはせざるをえない)ワタシのような者には、本を所有する行為を断つことは難しい。頭が良くないか、なんらかの執着心がそうさせるのだが、これはどうでもよろしい。
新刊を扱う書店で古本を扱うということが、過去にあったとすれば、それは古本屋さんが何らかの新刊本を扱っていたにすぎず、出版社および取次会社の隷属的な扱いを受けている、そこいらにある「本屋」さんで古本を同時に販売することはなかった。もちろんそれは出版社および取次会社になんら利益をもたらすものではないからだ。
ところが昨今では、この「タブー」が解禁になったかのごとく、書店が独自の判断で古書を販売しているというハナシがある。出版界に従事していた「感覚」でいうと、「ああ、出版もなぁ」と詠じたくもなるが、一消費者として考えれば、最上級でも最下級でもない中途半端な出版物にいつまでも私費を投じていては、物理的にも精神的にも破綻するというものだ。「この内容でこの値段?」。
本は確かに、文化的な、保護されるべき、人類の所産かもしれないが、やはり価格がある以上、商品としての側面は無視できないし、商品である以上、購入者にとって少なからずの「価値」をできるだけ高密度で封入することがなにより賢明で、その努力を怠った結果、今の出版界の現状がある。と、少なくとも送り出す側は考えなければならない。その上での「どうするか」なのだ。人が本を読まなくなったから売れないと言うのは門外漢のみに許される言い訳にすぎない。
書店だって好きで返品しているわけはないし、やはり売れる商品をできるだけたくさん仕入れ、販売したいと考えるのが正常で、それが古本であろうが書店にとっては本来関係のないことだ。
コンピュータゲームのように再販を規制するなどという暴挙(再販価格維持制度を撤廃するのであれば暴挙ではない)を、よもや出版社が考えているとは思わないが、苦々しき思いがどういったカタチで噴出するか興味深いところだ。
間違いなく言えることは、経済的な事情はさておき、本が好きな人ほど古本への執着があり、といって新刊本を購入することも懐具合によっては厭わない。購入に値することが何よりであり、新しいか古いかは問題ではない。「古本」を圧迫することはユーザーを減少させることにはつながるが、「古本がないから新刊を買おう」という意識にはかならずしも結びつかないということだ(このハナシ、趣味的な愛好者を持つ各分野の商品ことごとくに当てはまる)。むろん初めから古本である「本」はないのだが。
新刊が売れないのは、購入者が想定する内容に準じた「適正」な価格というものが、新刊書店のどこにも見あたらないからであって、古本があるからではない。古本が出回るのを待ちきれないほどのスバラシキ新刊本を出せばいいじゃん。ワタシはそんな風に考えています。
といいながら、ワタシが生息する千葉県松戸市常磐平から半径5km以内に点在する古本屋では、ハードカバーはもとより文庫本ですらほとんど商売になっていない様子で、この地域は貧乏な小、中、高校生が多数存在するにもかかわらず、マンガしか売れていない。ワタシ自身は1冊50円で文庫本が買えるこの状況がいつまでも続いてくれることを切に願っている。