2000年 4月 の記事

レベッカ

再結成だそうだ。需要があるのか無理やり掘り起こすのかようわからないが、可愛い子ちゃんでもなく、本格派でもない、ありのままの自分を反映させたその様は、中島みゆき節でもなく、かといって荒井由美風ですらなかったが、ノッコ的なるモノがプリンセスプリンセス前夜のJ回帰運動に弾みをつけていたことは間違いない。
「ロッキンオンジャパン」創世期に、元レベッカ当時レッドウォリアーズのギタリストが、ノッコとの愛のヒビを苦々しく語ってからのち、ノッコの等身大伝説はより強化していったように思う。逃避行からずいぶんと経過したように思うが、くだんのギタリストとのトゥルーラブを結実させたころには、往時の小泉今日子と同様にカリスマ指数は最大値を示していた。等身大である以上リスナーとの時間軸がずれるにしたがって、尾崎豊が抱えていたジレンマと同じく沈没せざるをえなかったのはやむを得ないが、その魂は脈々と受け継がれている。
結局のところ「フレンズ」のリバイバルによる復活を目論んでいるだけの、シンプルな再就職活動なのかもしれないが、等身大主義の需要は絶えることはない。問題は「アイデア」は、敷衍した後は単なる「テクニック」になってしまうことを、カリスマ、さまよえる民いずれもが冷静にできなくなってしまうことにある。
解散したのは単なるネタ切れ以上の意味があることがほとんどだろうし、それが時間を費やすことによって修復するとはあまり信じられない。いかに昨今闊歩するノッコの子供たちの振る舞いがインチキくさいものであったとしても、かつての本物が出向いていったからといって、それは単なるノスタルジーにすぎず、であれば、当人が「にっぽんの歌」で開陳するのがせいぜいだろう。
カリスマであるほど老いたさまは痛々しいものだ。子供をダシにするほうがましかもしれない。

指輪物語

日本語タイトルは「指輪物語」。「ファンタジー」の物語原型として広く伝搬しているトールキン(トルーキン?)の長大な小説(3分冊)。その登場は1960年代じゃなかったかと記憶している(あるいは評価されたのが)が、いずれにせよその人気がアメリカで沸騰した結果か、1970年代末(80年代初頭かも)に当小説を下敷きにしたアニメーションが日本でも公開され、わけも分からずに観た記憶がある。
2時間を超える作品だったが、すでに物語そのものよりも製作技術的に関心があるという、なんとも鼻持ちならない中学生だったため、ロートスコープとかいう当時の最新技術(と喧伝していたような気がする)を一目見ようとかけつけたこともあってか、原作の完全再現ではなく、ハナシが尻切れトンボに終わったことにも若干の失望しか感じなかったように思う。映像的には充分に満足のいくものだったから。
ちなみにロートスコープ(表記は正確ではない)は、いってみればライブアクションのようなもので、実際に役者が行った演技をフィルムに撮影し、それをあらためてアニメーションの動画として起こす手法(あるいはそういった方向性の技術)のことだと記憶している。当時収集したチラシにそんな説明があったように思う。
さて、ずいぶんと前にクランクインしたような気がするが、初の実写化となる「指輪物語」(3本に分割)の第1作がいつ公開されるのかは、いずれ公式サイトに発表されるだろうが、その前にかつてのアニメーションをもう一度観てみたいと思うことが、ここのところたびたびあるが、残念ながらビデオの実物を見たことがない。
世間の関心がハリー・ポッターに向いている(もとより向いていないかもしれないが)うちに何とかしないと、もしセルビデオがあるとしても、「指輪?」公開が決定した後は、下手をすると安易に入手できなくなってしまうかもしれない。いまだにアメリカでは「スターウォーズ」よりも人気がある「ファンタシー」なのだから、配給映画会社の広報担当だって、そこのところを利用しない手はないだろうし。
指輪物語に関する情報がワイヤードに増える一方なので少し焦ってきた。
[追記]
指輪物語の映画に関してもう少し。
トリロジー1作目の公開は2001年の12月に予定されている。まだ先のハナシである。ところが製作会社が公開した2分間の予告編は、米国時間4月7日に公開されてから24時間で170万回ダウンロードされたらしい。実はワタシもダウンロードしたのだが、なぜかウチの環境では観れなかった。……いずれ何とかするからそれはいいが、それにしてもこの数字はどうだろう。
先日も少し触れたが、スターウォーズよりも人気が高いというその根拠は、Amazon.comが調査した数字に依ったモノだが、大半の映画供給側がいまだ気づいていないとしても、ワイヤードの存在が映画宣伝にとって絶大な効果を持っていることは、疑いのないところだろう。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」、あるいは「踊る大捜査線 The Movie」、そして「スターウォーズ新3部作」にしても、この記においての作品表記があいまいなほどにどれも観ていない。しかし冷静に考えて、上記3作品に象徴されるような、ワイヤード上でのビリーバーによる布教活動は、少なくとも上意下達を旨とした他の宣伝活動よりも、消費者にシンパシーを感じさせることだけは確かだ。今のところ、ワイヤードはぎりぎりのところでアンダーグラウンドが存在しているように、「市民」のものであるようだから(安心はできないが)。
もちろんそれはイリュージョンにすぎず、さらにいえば幻想として成立しているのは、いまだワイヤードがマイノリティとして機能しているからにほかならない。益があるということが自明になれば、別段珍しくもない大資本の参入が本格化するだけだから。
目的の「指輪物語」はどうだろうか?
熱心なフォロワーが少なからずであることは承知しているが、それが膨大な製作費を補えるだけの保証は毛頭ない。であるがゆえの需要の「掘り起こし」であり、それは公開まで間断なく次第に強まっていくことだろう。どちらにしても作品は観てみるまでわからない、もとよりそれがすべてだが。
[追記02]
あれ? こんなにスペースを割くつもりはなかったんだけど、まずいなあ。
そもそも熱狂的な人たちに比べれば、ワタシの思い入れなんてものはないに等しい(それは私自身が指輪よりも「ダーク クリスタル」あたりに夢中になってしまっていたあたりに自明なのだけど)。
「スターウォーズ」にしても「新三部作」を最終的に強力に支援したのは、「スターウォーズ」的空気感が、それこそ「自明」としてあるような、ありていにいえば当たり前のモノとして世の中に認知された世代だった(リアルタイムに1作目を見ていなかったり)ようで、第一世代のヒトは「ひいてしまった」という経緯はどうか。
これがおそらく「指輪」にも適用されるであろうことは予測がつくわけで、いやそれどころか「縮小再生産」が続く限り確執はどこででも起こりうる。別段たいしたことじゃないともいえるけど。
わかりにくくく言えば、第一世代にとって得心たるようなモノが現在提供されることになれば、それはたぶんビジネスとしては破綻することにもなり、その逆であるならばやはり「薄い」ものでしかない。
これは小説→映像化というプロセスの中でも起きていることだし、とにかく何にでもたいてい当てはまったりする。「指輪」が幸運だといえるのは初めての実写化ということで、その点では皆等しく第一世代になる。しかし落胆は小説から入ったヒトのほうが大きい。ここのところが皆さんの恐怖だわな。もちろんワタシの恐怖でもあります。
ちなみに「指輪」同様にして「ダーク クリスタル」のビデオも探してたりして。

レンジファインダー

西方に見聞を広めにいった際、観光客のほとんどはなぜかNikon、ワタシはCanonブランドが席巻しているものと考えていたのだが、実際のところどうなのか。
そして、昨今数カ所で桜の撮影にいそしむ愛好者を散見したわけだが、やはりNikonだ。もちろんCanon、ついでPentaxともなるが、いずれにせよ、レンジファインダーなる旧式の機械を利用している趣味人にはほとんど出会わなかった。もちろんここで記しているブランドは35ミリフィルム使用のカメラであって、ブローニーサイズのいわゆる中判カメラに関してはその限りではない。もちろんその場合は富士フイルムの最新機種が席巻しているわけだが。
いや、レンジファインダーはスナップ写真にこそ、その真価を発揮する。そんなことはいうまでもないが、風景写真を含めた記念写真的用途というのは、今も昔も需要の大半を担っている。その局面で使用されていないレンジファインダーがカメラ雑誌、書籍を賑わしているのはなぜなのか。
もちろんクラシックカメラブームなるものが興隆した結果、ニーズが再復活したということもその理由だろうが、しかし実際にそのニーズを現認することがなかなかできない。
LeicaM型が登場したことによる、国内メーカーがレンジファインダー製品からの撤退、その後のメーカーの品質向上努力の結果、現在の一眼レフ市場があり、またその一方でレンジファインダーのスピンオフともいえるコンパクトカメラ市場、そして先祖返りとも言えるレンズ付きフィルムの登場と、各自が「求めてきた結果こうなっている」わけで、とすればレンジファインダーも時代の要請なのか?
もちろんそういう見方も可能だ。現行の一眼レフに魅力を感じないユーザーが増え、金属信仰を持つ若いユーザーが旧式の一眼レフを有り難がる、こういった流れと同調していることは間違いない。浅田彰氏が看破した「J信仰回帰」なるものの正体と関係が浅からずとしても、現実は現実だ。
少ない例だが、最新レンズの優等生的性能に飽き足らないプロカメラマンが、およそ時代遅れの一眼レフを「仕事」に使うという場を何度か目にしているワタシは、それ自体は容認できる。なぜなら彼らは最新一眼レフを使用した結果生じた何らかの「不足」を、古い技術によって補足しようとする場合が多く、逆に言えば、その古い技術が解決できない局面では、迷うことなく最新の機械を使っている。デジタルさえも厭わないのが現実なのだ。
古いから、新しいから、ということにはほとんど関心がない。こういった冷徹な判断を範にするのであれば、そう間違った道に迷い込むこともないのだが、残念ながらトラップを仕掛けることに長けたマスメディア、あるいはプロパガンダを生業とするカメラライター諸氏の美辞麗句に翻弄されてしまう哀れな子羊は後をたたない。
初めに需要ありきの時代でないことだけを肝に命じておくことだ。マスメディアで華々しく取り上げられたからと言って、それはマスメディアなりが関心を持つ、マスメディアにとって有用な商品だという以上の意味はなく、消費者のために作られたなどということはほとんどない。少なくとも銀塩カメラにおいては。
何度も書いていることだが、プロユースをなぞってきた歴史を考えれば、デジタルカメラの発展こそ誰も望んでいることで、銀塩カメラをいまだに使っているワタシにしても、それはしかたなしに使っているだけで、利便性を考えればデジタルカメラが早いトコ熟成してくれなきゃ困るのだ。
だって今の一眼レフは中途半端なのだ。換言すれば限りなくデジタル的なのだから。銀塩じゃなくても全然困らないでしょ。

桜谷軽便鉄道

http://www.ne.jp/asahi/garden/railway/index.html
鉄ちゃん、てっちゃん、テッチャン、ま、表記はどうでもいいが、それが「鉄道好き」を示す場合、揶揄を含みつつも、オタクの原風景として、欠くべからざるものであることは間違いない。肝要なのはアウトドア指向という点で、実はそれゆえ社会との隔絶を免れつつも、異端視されるであろう局面を生み出してきた。ちょっと気の利いた車両の通過する場には必ず存在が確認できるゆえ。
コミケ、アキバ、ゲーセン、場所はどこでもいいが、こういった場所が一般的に開放(認知)され、消費されたのはつい最近といってもよく、がゆえにさまざまなオタクの生態が散見されるも、「鉄チャン」が発散する意志力の前には、新興勢力はただひれ伏す他はない。
実は以前この人たちをテレビで見たことがあるが、まったく人畜無害なもので、ワタシなどはほほえましく思える。それは長い間「模型好き」として暮らしてきた自身を顧みてしまうからだろう。この場合重要なのは、個人的な乗り物として収斂されていること。船とか飛行機とか車とか、そういったものはおよそ力のいれ具合、換言するなら愛情が違うことが見て取れるのだ。安直なものではない。
現在あるような鉄道崇拝が一体いつ頃から発生したものかはわからないが、交通機関として考えるに、「馬車」を趣味とする向きが少数であろうことを考えると、陸上を移動する乗り物としては最古の部類になるであろうし、現代においても、やはり欠かすことのできない存在、しかるにその嗜好性も今後長く存続するであろうことは間違いないところだ。
歴史観を持ち得るという点で、ある種「固い」趣味だろう。そしてそこにフォーカスできる感覚をうらやましくも思う。非実用であるがゆえに素晴らしい。

映画「秘密の花園」

何気ない会話の狭間で「バック・トゥ・ザ・フューチャー」やら「わらの犬」やら「オールザットジャズ」劇中の印象的なシークエンスをうすぼんやりと思い出したり。思い出してビデオを観返したり。得な資質というのか、数年も経つと映画のストーリーなんてきれいさっぱり忘れてしまう。だから何度でも楽しめる。
最近は仕事で行った北海道の丘陵情景がたびたび思い浮かぶことが多いのだけれど、冷静に考えれば逃げ出したような苦しさがそのほとんどだったはずなのに、むしろ北の国に渡る前にさまざま巡らせた勝手な想像(だだっぴろい牧草地を馬に乗って駆けめぐるとか)や、「動物王国」を通して喚起されたイメージングに驚くほど固執している自分のでたらめな記憶を思い返して苦笑したり。
桜は毎年数カ所で見ることになるが、今年は世田谷区、千代田区、文京区、台東区で散歩+撮影。頭が悪いせいか、植物と鳥の名前がどうしても一定以上覚えられないが、桜だけは「桜」と即断できるのが安心この上ない(「椿」と「牡丹」すら同一視するていたらくなのだから)。
小学生のころから通っている神保町の古書店をいまさらありがたく徘徊し、必要以上に無視していた洋書の類に容易ならぬ関心を持ってみたり。どこも成績不振かプライスオフはなはだしく、たまらない風情のモーターサイクル本が捨て値でおかれているのを見るに、いてもたってもいられなくなったり。手放した「ソロモンの指環」を再度購入せざるをえなかったのも何かスイッチが入ったからなのだろう。
フランシス・フォード・コッポラ監督作品の「秘密の花園」は、英国の地に散見される美しい自然やら、過剰に優しげに可愛らしく描かれる大小の動物たちを堪能したい向きには必見だ。それはムツゴロウさんを疑いつつも求めてやまない、ワタシのようなインチキなメンタリティを満足させる心地よさだが、英国への期待を込めた誤解をここまで率直に開陳したところが気持ちいい。物語原型あるいは原則を踏襲していることを、何か予定調和的または懐古調を、この場合ネガティヴなニュアンスで捉えるのではなく、素直に気持ちよく受け止めることが、より楽しむコツだろう。「トレイン・スポッティング」だってスジだけみたらベタベタでどうしようもない。だけどやはり面白いとしか言いようがない。コレと同じ。
とりとめもない。

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