西方に見聞を広めにいった際、観光客のほとんどはなぜかNikon、ワタシはCanonブランドが席巻しているものと考えていたのだが、実際のところどうなのか。
そして、昨今数カ所で桜の撮影にいそしむ愛好者を散見したわけだが、やはりNikonだ。もちろんCanon、ついでPentaxともなるが、いずれにせよ、レンジファインダーなる旧式の機械を利用している趣味人にはほとんど出会わなかった。もちろんここで記しているブランドは35ミリフィルム使用のカメラであって、ブローニーサイズのいわゆる中判カメラに関してはその限りではない。もちろんその場合は富士フイルムの最新機種が席巻しているわけだが。
いや、レンジファインダーはスナップ写真にこそ、その真価を発揮する。そんなことはいうまでもないが、風景写真を含めた記念写真的用途というのは、今も昔も需要の大半を担っている。その局面で使用されていないレンジファインダーがカメラ雑誌、書籍を賑わしているのはなぜなのか。
もちろんクラシックカメラブームなるものが興隆した結果、ニーズが再復活したということもその理由だろうが、しかし実際にそのニーズを現認することがなかなかできない。
LeicaM型が登場したことによる、国内メーカーがレンジファインダー製品からの撤退、その後のメーカーの品質向上努力の結果、現在の一眼レフ市場があり、またその一方でレンジファインダーのスピンオフともいえるコンパクトカメラ市場、そして先祖返りとも言えるレンズ付きフィルムの登場と、各自が「求めてきた結果こうなっている」わけで、とすればレンジファインダーも時代の要請なのか?
もちろんそういう見方も可能だ。現行の一眼レフに魅力を感じないユーザーが増え、金属信仰を持つ若いユーザーが旧式の一眼レフを有り難がる、こういった流れと同調していることは間違いない。浅田彰氏が看破した「J信仰回帰」なるものの正体と関係が浅からずとしても、現実は現実だ。
少ない例だが、最新レンズの優等生的性能に飽き足らないプロカメラマンが、およそ時代遅れの一眼レフを「仕事」に使うという場を何度か目にしているワタシは、それ自体は容認できる。なぜなら彼らは最新一眼レフを使用した結果生じた何らかの「不足」を、古い技術によって補足しようとする場合が多く、逆に言えば、その古い技術が解決できない局面では、迷うことなく最新の機械を使っている。デジタルさえも厭わないのが現実なのだ。
古いから、新しいから、ということにはほとんど関心がない。こういった冷徹な判断を範にするのであれば、そう間違った道に迷い込むこともないのだが、残念ながらトラップを仕掛けることに長けたマスメディア、あるいはプロパガンダを生業とするカメラライター諸氏の美辞麗句に翻弄されてしまう哀れな子羊は後をたたない。
初めに需要ありきの時代でないことだけを肝に命じておくことだ。マスメディアで華々しく取り上げられたからと言って、それはマスメディアなりが関心を持つ、マスメディアにとって有用な商品だという以上の意味はなく、消費者のために作られたなどということはほとんどない。少なくとも銀塩カメラにおいては。
何度も書いていることだが、プロユースをなぞってきた歴史を考えれば、デジタルカメラの発展こそ誰も望んでいることで、銀塩カメラをいまだに使っているワタシにしても、それはしかたなしに使っているだけで、利便性を考えればデジタルカメラが早いトコ熟成してくれなきゃ困るのだ。
だって今の一眼レフは中途半端なのだ。換言すれば限りなくデジタル的なのだから。銀塩じゃなくても全然困らないでしょ。