2000年 5月 の記事

井上大輔

自宅で首吊り……「ブルーシャトー」が懐メロにすぎないワタシの年齢では、日大同窓のよしみ(笑)で仕事が成立したらしい、劇場版機動戦士ガンダムの主題歌(哀・戦士/めぐりあい宇宙)を歌っていたヒトという認識しかない。が、山村聡翁的往生はしかたがないことだけど、こういうのは勝手にそのヒトの苦痛を想像してしまう分やりきれないですなあ。合掌。劇場版一作目は、やしきたかじん(砂の十字架)でしたな。
[追記]
「ブルーシャトー」ではなく「ブルー・シャトウ」が正しいのかな。それにしても一般向けニュースでは、ガンダム云々といったことは封殺されていますね。網膜剥離を苦にした自殺には不要な情報なんでしょうか。ところで、眼球構成要素の老朽化による障害は老年期には避けられないモノ。特に水晶体が濁ってしまう白内障あたりは老人症といってもよく、ワタシのまわりの高年齢層でもちらほら。眼を酷使する職業の場合はさらに出現確率が高くなります。ご自愛のほどを。

バトル・オブ・シリコンバレー

昨年のいつだかに少しだけ取り上げたジョブズとビルのシリコンバレー青春白書。一体どの程度の反響があったのかはまったく知る術を持たないが、とりあえず7月14日よりビデオレンタルが開始されるので、見かけたら観てみようと記憶。
かつての両者の風貌を記憶する者にとってはパッケージのビジュアルを見た時点で、何かこう、その映画が語ろうとしている方向性が透けて見えるもので、内容に関してもかなりのアバウトさが懸念されるけれども、現実の彼らが相当に浮き世離れしているのだから、いまさらの虚色もどうということもない。

便器

http://news.yahoo.co.jp/headlines/reu/000522/ent/18412501_h00006409.html
放置プレイならぬ放尿プレイが、中国人現代美術家グループによってとうとう……ことはリニューアル華々しいテイトギャラリー(モダン)にて。
快挙なのか愚挙なのか。「欧米」人でも「日本」人でもない「中国」人というベクトルから、この行為(解釈)がなされたことがどういうことか考えてみることが大事。
ややこしく言えば「一部の観客は、正式な予定通りのパフォーマンスと思い込んでいたという」という予定調和でさえ、では、日本人作家が同様の行為を成し得るだろうかを想像するに、おそらく夢想だにしえないだろうというあたりに、「現代美術」に対する「日本人」の限界、さまざまな風土に根ざした肉体的にも精神的にも「脆弱」であるがゆえの日本「人」美術観の繊細さをあらためて確認する。
どうせやるならこういう「思い切り」(乱暴さと換言してもいい)が必要なときには発揮するべきだということ。中途半端は逆効果なのだ。この行為自体はしょせん想像の範疇にすぎないし、結果は単なる陳腐なパフォーマンスでしかありえないのかもしれない。が、しかし日本人にはいささか距離のある大陸的解釈(感覚)だ。こういう「粗暴」の中で切磋琢磨することに大抵負けちゃうんだよな。美術に限らず。
どっかの国の白人じゃないが、この上なく美しい田園風景を作り上げる(あるいは守っていく)心性は、ある種のずさんな暴力性と裏返しに存在しているのだ。あまりにも暴力的であるがゆえに、美しきものを希求する欲望もまた果てしない。残念ながらそういう競争では今の日本に勝ち目がない。そういう「力強さ」がないことを逆手にとって勝負していく、もしくは国内消費だけで充足していくしかない。
コンセプトってのは野蛮な実行力が根底、背景にあってこそ迫力を増すのであって、そういうモノを生み出す必然性の乏しい日本的風土(なんだかんだ言ってもやっぱり日本は平和だもの)の中では、それこそ単なる思いつきにすぎないということを考えると、職人的な積み重ね(結局ジャパニメーションてのはこれだ)に傾斜していくのは仕方のないことかもしれない……繊細さだけで勝負できるよな。ペインティングとかも同様だ。
おおまかな神経ではおよびもつかないような几帳面さでしのぐしかないのに、それをスポイル(自習時間に勉強するような真面目さは年々迫害される一方だ)する動きばかりが加速しているのが心配だ。花鳥風月を切り離したら「ただ弱い」だけになっちゃうのに。

家畜人ヤプー

気がつくのがちと遅かったが、「聖ミカエラ?」の月蝕歌劇団が怪作「家畜人ヤプー」の舞台をやっている(真っ最中)。
「血糊と蝋燭と女子校生」を主軸にした高取英解釈の「ヤプー」か……「ウテナ」であれば、セラミュー(セーラームーンミュージカル)同様だと揶揄されてもよかろうが、ヤプーはどうだろう。正直言って検討がつかない。心配なだけだ。
それはそれとして、寺山修司「天井桟敷」からシーザー「演劇実験室◎万有引力」あたりを信奉する心性は根強いものがある(月蝕歌劇団はアングラですらないという意見はこの場合度外視)が、すでにカウンター足り得ないサブカルチャーは単なる2軍にすぎないことを証明している一例といえる。
かつてはなんかしらかの革命であったのかもしれないが、今日においては「常道」になっていることに気がついていない蒙昧さ(ノスタルジーであることを認める場合は例外)。果ては「ウテナ」的なるものが、ロックコンサートで振り上げた拳同様、単なるパロディにすぎないことを分かろうともしない「熱っぽさ」さがうとましい。
乱暴だが、こういう感想を漏らさずにいられないのが、昨今のサブカルチャーなるもので、マイノリティであるがゆえに信奉する向きの絶えないこと。それは大多数であるがゆえに支持する心性とさほど変わりない。
アンダーグラウンドを支持しがちなワタシだが、別にマイナーであることが大事なのではない。そりゃ人様の知らないなにがしかを自慢するってのはOTOKUかもしれないが。

ハンドルネーム

「銃夢」ってマンガをもって名声を、「龍河銃夢」のハンドルをめぐって悪名を、高めておとしめた木城ゆきと先生のサイトが休止中。
「龍河氏へのハンドルネーム不使用要求」をめぐる、ことの詳細は検索エンジンで調べればいくらでも出てくるので省略。
編集者というフィルターを通すことのない、作家が「自分の声」を伝達する手段としては「最良」であったコンピュータネットワークが、ここではむしろ逆のベクトルとして働いた。本来は社会を逸脱することによって作家性を保持するというスジにしたがえば、木城先生のこうした課外活動と作品表現は別個に考えるべきだが、昨今の世間はそうさせてはくれない。むしろ作家に公人としての振る舞いを要求する。厳密に言えば作家と作品を同一視する向きならばということだ。
個人的には、「ハンドル」という文法の成立経緯も考慮できなかった木城先生のうかつさを嘲笑してはいたが、不用意この上ない行動によってフォロワーが減少したことが、今後の作家活動に影響しないといいのだがとも考えている。
作家が「良識」をもっていることは担当編集者にとっても、取材をするワタシのような者にも大変ありがたいことだが、やはり大事なのは作品自体であり、そこのところが逆転しているケースも少なくない。
エキセントリックであったことが問題なのではなく、エキセントリックさを許容しない社会にアクセスした行為が誤りだったことを考えておこう。そんなことにかまけているヒマがあったら、作品を作っていたほうがましという心性を大事にしたい。
第一そこいらの御仁と同じメンタリティしか持ちえない作家の「作品」なんて退屈なだけだ。

Mac OSX

今夏の予定が来春。とりあえずベータ版。実際にマシンにインストールされて出回るまで1年と考えていいだろう。
高度で複雑な機能を平易なインターフェースで操作でき、なおかつトラブルシューティングも容易なMacが好まれたのは、仕事に利用するからとはいえ、高度で複雑なシステムが必要なのではなく、仕事だからこそ難解なシステムは避けたいという欲望に基づいていた。
もとよりメカニズムに習熟している向きを対象にしていないMacintoshユーザーをつかまえて、いまさらカーネルがどうのだとか、ジョブがどうたらと教育するのは何かが転倒している。
おそらくMacOS Xがリリースされることを心待ちにしているのは、Macintoshが存在しなくても平気なユーザーであり、それはDOS/Windowsからの移民者かもしれない。むしろワークステーションばりの高機能なOSこそふさわしいと考えているのかもしれない。
さらに言えばひと昔前のユーザーであれば、ちょっとした試練には喜々として立ち向かったかもしれない。しかしそうしたユーザーを育成する努力を放棄して久しい。CodeWarriorは高価としかいいようがないし、HyperCardをわざわざ購入するのはばかげている。増加した初心者はWebやメールを利用するだけで充足している。
おそろしく単純なMacOSが再登場し、非マニアのプロシューマがなだれ込みを見せたとき、提供者はプロ向け・家庭向けという図式を再検討することになるかもしれない。

生と死

WWDC 2000において、Developer Preview 4の公開予定を控える期待のMac OS X、Apple存続にとってとても大事なOSであることは間違いないだろうし、一日も早く活用してみたいという気持ちもある。
ただ、同時に「Classic」として位置づけられる、現行のMacOSの死を意味することにもなる。むろんその移行は緩やかなものであるかもしれない。しかしメンテナンスモードに入って久しいHyperCardひとつとってみても、それは朽ちていくものでしかない。
そんなものは単なるセンチメンタリズムにすぎないといえばそれまでだが、実際「それ」で充足している場合はどうすればいいのだろう。
こんなことは68KからPowerPCへの変遷の際にもさんざん議論されたことだが、ハードの寿命が尽きているとはいえなかった68Kをしゃぶりつくそうとする向きによって、思いのほか存命してしまった経緯を考えると、現在捨て値で取り引きされているMac OS X動作保証外の「Classic」マックが、瞬間高騰するかもしれない。周辺機器も同様に。
確かにMac OS Xは素晴らしい。しかし大半の人びとは旧OSとの違いを正確に判断することはできない。従来のOSもエミュレーションモードで動作するから問題ないといっても、それはそういうものを望んでいる向きが讃えるだけのことで、新しい複雑になったシステムが一般用途中心のユーザーに必要かどうか。
残念ながらMacintoshというコンピュータはメーカーが望むよりも日持ちしてしまうゆえ、新世代を標榜しながらも常に旧世代との確執が生じてしまう。おそらくそれは今後も続くだろう。たかが機械にすぎないが、「愛着」というのはなかなか放棄できないものだ。そういう作り方、売り方をしているがゆえのユーザーの忠誠度がある。これでは数は売れない。
そして数が売れない程度の企業規模では、旧世代を完全に切り離す荒技を行使するほどの体力もない。そのほうがMac OS Xにとっても足枷がないことは明らかだとしても。
Windowsでは2年ごとのハードの買い換えがなかば強制的に励行されている。これはかつての日本の自動車産業が試みた道だ。余分な愛着を持たなくてすむという点は評価できる。ワタシのような吝嗇には耐えられないことだが。

俳優

検挙一歩手前のインディーズAVがばんばんと置いてある近所の貸しビデオ屋の店長は、バーチャ全盛期には隣接するボーリング場のゲーセンで全国のカゲ使い同様、ちくちくと高校生をいじめていたことは常磐平駅前では有名だが、バーチャがすたれた今、もとより盛んな映画鑑賞に拍車がかかっている。で、近隣の蔦屋よりも渋い品揃え+有線大音量メタルかけ放題なステキな空間で、賞味期限切れの300円ビデオを物色する日々だ。
大半はなお高かろうという物件だが、マシュー・ブロデリック+マーロン・ブランドの「ドン・サバティーニ」を見つけた瞬間には少しだけ高揚もする。「ドン・コルレオーネ」そっくりのマーロン・ブランド扮する「ドン・サバティーニ」を観るだけでも時間を割く価値があるが、やはりマシュー・ブロデリックにつきる。
マイケル・J・フォックス、マコーレ・カルキン、リバー・フェニックス、となぜか贔屓目の役者が暗黒面に沈殿していく中、マシュー・ブロデリックだけはどうやら共和騎士足り得ているのか? おそらくそれも贔屓目なのだろうな。彼らはいくら「新境地何がしを」切り開こうとも、自己模倣にとらわれる運命にある。そこのところがワタシにはこたえられない。ゆがんだメンタリティだ。
ところで「エピソード1」の子役はどうだろう。映画自体よりその姿を見たいがために最近借りる方向で検討中。

中古

旧聞になるが、4月21日に東京・九段で開かれた「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」では、新古書店、マンガ喫茶あたりに圧力をかけていく方策が練られたそうだ。

昨今の「中古」業者の跋扈によって新刊販売が阻害されていることに異議申し立てをという、いささか脊髄反射的な立ち居振る舞いとも思えるが、以前書いたように、再販価格維持精度によって存命している出版界あるいは作家が、例えばゲーム業界と同様の理屈を持ち出すことは少し無理がある。

もちろん寡作ながら優れた作品を生み出している作家の保護といったことも考えられるが、もとよりこうした小品は最初から新刊の現場では冷遇されている、さらには作品が陳列されているマンガ喫茶を探すのは難しい限りだ。

極端に言えば、マンガ喫茶に集うのは、初めからマンガなんてものは読み捨てと考えているヒトか、自分の気に入った作品にはいかなる状況にあっても私財をなげうつような豪毅あふれるヒトであろうし、であるなら中古がなくなれば、読み捨て派はマンガから遠ざかるだろうし、一家に3冊派は高岡書店に出向くだけだ。

読み捨てで充分な作品と見なされているからこそ喫茶店レベルで機能するのだろうし、図書館でファミ通を読むようなものでしかない。

ビニールがけのごとき新刊本のプロテクトを施して、購買者を遠ざけてきた結果にすぎないといっては言いすぎだろうか。中古がなくなれば確実に買う層は減少するだろうし、試用もできないようなソフトウェアの未来が明るいとは思えない。

何度も読み返すような、手元に置いておきたくなるような、いてもたってもいられなくなるような、素晴らしい作品があれば、誰だって買いたくなるだろう。逆に言えば、マンガはそういう役目をとっくに終えているのだ。そこのところをはき違えてしまっては困る。

もちろんだからこそ既得権益を死守しようとするんだろうが。

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