http://news.yahoo.co.jp/headlines/reu/000522/ent/18412501_h00006409.html
放置プレイならぬ放尿プレイが、中国人現代美術家グループによってとうとう……ことはリニューアル華々しいテイトギャラリー(モダン)にて。
快挙なのか愚挙なのか。「欧米」人でも「日本」人でもない「中国」人というベクトルから、この行為(解釈)がなされたことがどういうことか考えてみることが大事。
ややこしく言えば「一部の観客は、正式な予定通りのパフォーマンスと思い込んでいたという」という予定調和でさえ、では、日本人作家が同様の行為を成し得るだろうかを想像するに、おそらく夢想だにしえないだろうというあたりに、「現代美術」に対する「日本人」の限界、さまざまな風土に根ざした肉体的にも精神的にも「脆弱」であるがゆえの日本「人」美術観の繊細さをあらためて確認する。
どうせやるならこういう「思い切り」(乱暴さと換言してもいい)が必要なときには発揮するべきだということ。中途半端は逆効果なのだ。この行為自体はしょせん想像の範疇にすぎないし、結果は単なる陳腐なパフォーマンスでしかありえないのかもしれない。が、しかし日本人にはいささか距離のある大陸的解釈(感覚)だ。こういう「粗暴」の中で切磋琢磨することに大抵負けちゃうんだよな。美術に限らず。
どっかの国の白人じゃないが、この上なく美しい田園風景を作り上げる(あるいは守っていく)心性は、ある種のずさんな暴力性と裏返しに存在しているのだ。あまりにも暴力的であるがゆえに、美しきものを希求する欲望もまた果てしない。残念ながらそういう競争では今の日本に勝ち目がない。そういう「力強さ」がないことを逆手にとって勝負していく、もしくは国内消費だけで充足していくしかない。
コンセプトってのは野蛮な実行力が根底、背景にあってこそ迫力を増すのであって、そういうモノを生み出す必然性の乏しい日本的風土(なんだかんだ言ってもやっぱり日本は平和だもの)の中では、それこそ単なる思いつきにすぎないということを考えると、職人的な積み重ね(結局ジャパニメーションてのはこれだ)に傾斜していくのは仕方のないことかもしれない……繊細さだけで勝負できるよな。ペインティングとかも同様だ。
おおまかな神経ではおよびもつかないような几帳面さでしのぐしかないのに、それをスポイル(自習時間に勉強するような真面目さは年々迫害される一方だ)する動きばかりが加速しているのが心配だ。花鳥風月を切り離したら「ただ弱い」だけになっちゃうのに。