ダートトラック(HONDA FTR)
- 2001年 4月 1日
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2輪の興味ないヒトにはわかりにくいハナシです。
ギャンブルレースで「オートレース」というものがある。オーバル(楕円)のトラックコースを主に500?650ccの単気筒マシンが「左回り」で「足を出しながら」がぐるんぐるん周回するレースのことだ。足を出す、すなわち「リーンアウト」(相対するモノに「ハングオン」や「リーンイン」がある)を意味するが、モトクロスのようにコーナーだけ足を出すのではなく、そもそも直線とコーナーが交互にやってくるというスピードレース、という概念すらそこにはなく、オーバルであるから、ずっと「コーナリング」をしながらレースが行われる。
実際にレースを見ればわかることだが、それはとても不思議な感触で、もとよりオートバイに乗っていることもあったが、トリコになった。初めてレースを見たのは17年ほど前だが、比較的に近いところに船橋オートレース場があったこともあり、しばらく観戦に熱を入れた。
ワタシのようにたいしてお金もかけずにただレースを見に来るというヒトもそれなりにいるようで、そのころなら、筑波のシングルレースでなければ浴びることができないビッグシングルのエキゾーストノートがわずかな入場料で堪能できるのだからたまらない。
ワタシは KAWASAKI AR80 であるとか YAMAHA SR400 改 500 のような、当時あまり人気のなかった方向性のモーターサイクルでレース場に向かうことが多かったが、オートレーサーを何度となく見ていると、単純に「ああいうのに乗りたい」と思うようになってしまった。そして興味はダートトラックレースに長じた。
ダートトラックレースは、土のトラックを周回することから始まり、アメリカでは今でも残っているし、日本のオートレースもかつてはそうだった。通常知られるダートトラック系レースで用いられるマシンは、エンジンはレースの種類を問わず似たようなもので、アメリカでは Harley-Davidson がV型2気筒だが、大抵ビッグシングルが利用される。ただしタイヤに関しては、「スピードウェイ」のようにオートレーサーのような幅の狭いタイヤ(50ccのタイヤを想像してくれればいい)で行なわれるモノもあり(これがスパイクタイヤになって氷の上を走るモノもある)、差異はあるが、全体の印象はアップハンドルに太いタイヤということになる。
ところで、アメリカで行われているスーパーバイカーズというレースではオンロード、オフロードさまざまなマシンがスリックタイヤをつけて砂混じりのサーキットを走り回るが、日本でも一時期そのタイプのバイクへの改造が流行した。この場合フロントタイヤは小径(主に16インチ)ホイールを装着するのが習わしで、オンロードの場合は問題ないが、オフロードの場合通常が21インチがなので16インチにした場合、ひどく妙な体裁になる。
おおむね改造車を指向する人間にあることだが、そうした改造による「変異」を「これが本場(本物)なのだ」といった「自分(ないしはその情報を伝達されたごく少数)にだけが理解している」と考える、ささやかプライドがある。
実際専用にチューニングされたレース専用車ならともかく、フロントタイヤだけを取り替えたシロモノが、ましてや走りやすいことはなく、直立状態でしかアクセルを全開できないようなインチキなライディングをせざるをえないことになるわけだが、問題はそれが他人(この場合他のライダー)から見た場合どう映るかがむしろ重要で、操安性がスポイルされた改造が主流を占めるのはいつの世も変わらない。
さて、ワタシがオートレースやダートトラックレースに興味を持ち、「狭い世間」(しつこいようだがバイク世界)に対して、「オレはこういうのに理解があるんだゼ」という証明をどういったマシンで成し得たのだろうか?
HONDA には FT400(500)という一応はダートトラックマシン風の製品があったが、どうもインチキな感触があった。それはある意味誤解であり、本質的には光る素材だったが、10代のぼんくらなワタシにはそんなことはわからなかった。排気量だけを考えればSRをそれ風に改造するという手もあったが、さんざん苦労してバランスをとったチューニングを水泡に帰するには惜しい。
そこでワタシは HONDA FTR250 に手を出した。といってもすぐには買えず、実際にそれを購入したのは、数年後一番の不人気車種として中古市場に出回ったころであり、確かセルモーター付きで新車同様のを16万ぐらいで買った。
実はそのとき初めてセル付きの単車を自分のモノにし、思ったことは、「セルって何てラクチンなんだ!」というまるで、自転車小僧がピカピカ光るウインカーや光量充分なヘッドライトのついたエンジン付きの乗り物に初めて乗ったとき、「夜道が怖くない!」と感嘆するような素朴な感触で、改造しようなんて気が起きるのはずいぶんと経ってからだった。つまりただ乗っているだけでラクチンで楽しかったのだ。
それはそうだ。今まで乗っているモノといえば、小さい排気量で回転を稼ぐ他ない80ccや、力はあるが、改造したおかげでひどくエンジンがかかりにくくなったビッグシングル、はては公道は練習場までの単なる移動にしかならない「100kmも出せば逝ってしまうような」コンペティション仕様のトライアルマシンだったのだから。
当初の感動も冷めたところで、とりあえずダートトラックの真似事をしたくもなり、河川敷に乗り出したが、ここでこのマシンの欠点(欠陥)を初めて認識した。ダートラッカーに求められるのはスリム軽量な車体はもちろんだが、なによりアクセルオンでタイヤを「簡単に滑らせる」ことのできるパワーであり、それがわが愛車には決定的に欠けていた。キャブを多少低速側にふって、ギア比を変更した程度のモディファイを HONDA XL250R をベースにしたエンジンに施したって、250cc は 250cc である。
そして、ワタシにとってトライアルの余興にすぎないこうした「遊び」はすぐ諦めた。せめてもというわけで、威勢の良い音だけでも思いサイレンサーを探したが、これがまったく見あたらない。最後には「レース用のスーパートラップ」を近所の店で融通してもらうことになるが、これがエキゾーストパイプと一体になったモノで法外な値段ときた。しかも、レースであるから、通常のスーパートラップを比較しても格段にうるさい。
サイレンサー先端にフラップを追加して、排気圧を調節し、主力特性を調整できる産物として、音量を下げることができるスーパトラップだが、5枚のフラップ追加でも家の前でエンジンをかけるのが気がひけるほどの騒音なので閉口した。なにしろジェット型のヘルメットでは騒音で耳がしびれるのである。
また、HONDAはこのマシンに妙なところで工夫をしていて、ダートトラックは左回りであることから 、最初からフレームが左に編心している。すなわちまっすぐ走ることをほとんど考慮に入れていないことを真似ていた。詳しく言えば、普通2輪車はある程度の速度を出していれば、直線走行においてバランス取りに神経を使うことはないが、この種のマシンはコーナーをある程度安定して傾けられることの代償として、直線を走るときに少々意識的なバランス取りが必要だということ。もちろん公道車であるからその「手心」はずっと緩やかなモノだが、それでもこころなしか走行中にハンドルから手を離すと左に傾くような気がし、これはオカルトかもしれないが、やはりいったんそういう知識があるともういけない。最後にはその欠点を「本物志向だから」というお得意の論理でむしろまわりに喧伝することになるが、アンダーパワーでなにが本物か! ということは結局解決しなかった。
数年前から YAMAHA TW200 を中心としたダートトラッカー景気が続いている。それは直前の Harley-Davidson バブルで イージーライダー風ハーレーを模した和製のハーレー人気が一段落したころに浮上した、ハーレー文化としてはむしろ異形である Harley-Davidson 883 やその変化系に手が届かない人たちのために用意された手の届く贅沢(というにはあまりに貧相だが)かもしれないが、ブームというにはずいぶん長いような気もするし、静観していた HONDA がエンジンその他を小変更した FTR233 を投入したことを考えると、意外に残っていく流れかもしれない。
改造パーツが大量に出回り、むしろ改造が前提で流通するあたりは、かつてのSRブームと似てなくはないが、ほとんどドレスアップパーツを装着することで充足していることを詳細に観察すると、SRの時とは違い、メカに興味を持っている人間ならばやらない改造(といえるかどうか疑わしいが)がかなりあるようだ。
サイレンサーやハンドルを交換することによって生じる弊害は、考えようによってたかが知れている。「バランス」は悪くなるが、危機に際してむしろ幅の狭いハンドルで慌てるよりもいい。排気系の改造にしてもむしろパワーダウンすることが多いし、ある程度大きな音量は、迷惑ではあるが、「注意の喚起」ぐらいにはなる。
不思議なのは、フロントフェンダーを外した単車が相当数存在することで、それはいくらなんでもと思ってしまう。思っている以上にあの「泥除け」はフロント周りの強度アップになっている、というよりアレがないと強度は著しく低下する。それはフロントフェンダーが割れた程度でもグニャグニャとした操安性になってしまうことからも明らかだ。
にも関わらず、それを良しとするのであれば、その状態変化によほど鈍感なのかと思い、であるなら、その他の危険察知能力も怪しいと考えるのが妥当で、そういった感覚の単車が跋扈しているのはとても恐ろしいことだ。簡単に言えば自転車感覚で乗っているということになる。
いくらアンダーパワーとはいえ、相応の重さを伴った金属の固まりである。ぶつかれば人間などひとたまりもない。
ストリートだけで消化(昇華)されていくモーターサイクル文化はこうしたことが無責任になりがちで、公道上で走行する上で必要な規範(従来は「本物」とされた何か)というものがない分、とても自由な感覚に満ちあふれているが、何でもありということは、例えばいくら「バイク乗り」の風評が好ましくないモノになり、世間のいわゆる排斥感情が強くなって、あげくに「バイク世界」が社会的に抹殺されても平気という「感覚」が多数を占めるということにもつながっていく。これは4輪での峠指向にも言えることだ。
このことは、メーカーの側で操作できるような、換言すれば、用意できるようなある種の整備、みんなが気軽に利用できるようなレース場であるとか、運転講習会の実施といったことが、ほとんど必要とされないということを意味することになる。つまり「売りっぱなし」ということだ。
好意的に解釈して、HONDA はそういう傾向に拍車がかかることを恐れて FTR の再販をしなかったということも考えられる(そうではない可能性が高いが)。しかし、今は YAMAHA 同様に安直な路線を選択したのだから、問われてしかるべきだろう。
これなら「いつかはサーキットで」と夢見つつ峠でステップをこすっているレプリカ小僧・小娘(まだいるのか?)のほうがましなのかもしれない。少なくとも彼(彼女)らの世界観には「まっとうな」イデアがある。そこではライディングテクニックが並外れているわけでもなく、メカニズムに精通してもいない、テレビドラマの主人公がただ乗っているだけのバイクが流行するということはあり得ない。
これも上意下達からの解放、ひとつの自由のカタチなのだろうか。ホントはカリスマが細分化、低価格化しているだけだと思うが。